歴史の勉強

丸岡藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
本多成重 寛永元.5~正保2.5
1624~1645
4.6 慶長18年福井藩付家老として丸岡4万石
寛永元年に譜代大名取立て
本多重能 正保2.5~慶安4.12
1645~1651
4.3  
本多重昭 慶安5.2~延宝4.1
1652~1676
4.3  
本多重益 延宝4.3~元禄8.3
1676~1695
4.3 改易
有馬清純 元禄8.5~元禄15.12
1695~1702
5.0 越後糸魚川より
有馬一準 元禄16.2~享保18.4
1703~1733
5.0  
有馬孝純 享保18.4~宝暦7.2
1733~1757
5.0  
有馬允純 宝暦7.4~明和9.9
1757~1772
5.0  
有馬誉純 安永元.11~文政13.4
1772~1830
5.0  
有馬徳純 文政13.4~天保8.9
1830~1837
5.0  
有馬温純 天保9.2~安政2.4
1837~1855
5.0  
有馬道純 安政2.8~
1855~
5.0  

丸岡藩は越前の最北部、加賀との国境近くに位置した譜代藩であった。丸岡市街地(現坂井市)に建つ丸岡城には、望楼型の天守が現存していることで有名である。

丸岡藩の成立

丸岡の地は、豊臣時代には青山忠元が領して4万6千石を得ていたが、関ヶ原役で西軍に属した為に役後除封され、松平(結城)秀康の所領となった。
秀康は家康の二男であったが秀吉の養子となり、その後関東の名族結城家の家督を継いだ。家康の跡継は三男秀忠となったが、秀康は秀忠の兄ということで松平姓を名乗り、越前北の庄(のちの福井)67万石の太守となった。
これ以後越前松平家とよばれ、いくつかの特権を有して制外の家とも言われ、格式は御三家並であった。

秀康は越前に入ると丸岡に家臣今村盛次を置き2万5千石を与えた。慶長12年(1607年)に秀康が没して嫡子忠直が封を継いだが、慶長16年(1611年)に重臣間の内紛から越前騒動(久世騒動)が起きる。
対立する派閥の一方の旗頭は今村盛次であり、もう一方は府中(武生)の本多富正であった。翌慶長17年に騒動は決着し、今村盛次は配流処分となった。
このため幕府は若年の藩主忠直を補佐し、越前松平家の動揺を抑える目的で、付家老として本多成重を付属させ、成重は4万7千石を与えられて丸岡に入った。

本多成重は鬼作左として名を馳せた本多作左衛門重次の嫡男であった。作左衛門重次は武名高く、歯に衣着せぬ物言いをする古武士的な男であったが、その性格や言動が災いして天下人秀吉に嫌われた。
家康も頑固な重次を次第に持て余して、3千石を与えて隠居させた。「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」という簡潔に要点を述べた、手紙文の模範とされる文章があるが、これは重次が戦場から国許の妻女に送ったもので、この中に書かれたおせん(仙千代)が成重である。
成重は丸岡に入ると武生の富正とともに両本多と称され、福井藩政に尽力する。ちなみに本多富正は重次の甥であり、したがって成重とは従兄弟同士となる。

本多氏時代

成重が丸岡に入ったのは慶長18年(1613年)のことであり、翌慶長19年には大坂冬の陣が起こる。さらに翌年の元和元年(1615年)には夏の陣と続くが、大坂の陣における両本多の活躍は目覚しいものであったという。
特に夏の陣で成重は、3百騎を率いて真田幸村の軍を破り、大坂城一番乗りを果たし、戦後従五位下飛騨守に叙任された。
これら越前勢の活躍で家康の孫忠直も面目を施したが、家康から「初花」の茶入と秀忠から「貞宗」の脇差を与えられただけであった。

本来将軍職を継いでもおかしくない家柄であると考えていた忠直は、これを不満として次第に酒色に耽り、乱行に走る。
暴虐の限りを尽くしたとも言われるが、どこまでが本当かはわからない。しかし忠直が政治を顧みなかったのは事実で、幕府も処分せざるを得なくなった。
忠直は改易となり、その嫡男仙千代(光長)は越後高田に移された。代って越後高田から秀康の二男忠昌が50万石で福井に入った。
このときに成重は6千石を加増されて4万6千石となり独立した譜代大名となった。

成重は領内の開発に力を注ぎ、検地を実施して財政の基礎を確立し、新江用水の開鑿を行った。しかし丸岡藩領は狭い上に生産性が低く、石高の増加はほとんどなく、このことが藩政の大きな障害となっていく。
成重は正保2年(1645年)に隠居して、その後重能-重昭-重益と継いだ。このうち重昭は浄土真宗西本願寺派の僧侶寿法に深く帰依し、参勤交代にも伴ったほどであった。領内の神仏にも広く保護を加えている。
だが、次の重益は政治に関心がなく、もっぱら酒色に耽ったために、重臣間に対立を生んだ。重益のもとで実権を握って藩政を牛耳る本多織部に対し、本多又八らは重益を引退させ、織部一派を追放しようと画策した。

一時は重益の押込に成功したが、織部一派の巻き返しにあって重益が返り咲く。重益は本多又八らに報復を行い、又八は嫡子丸八郎ともども捕らえられて獄につながれ、獄内で餓死させられた。
本多刑部らは丸岡を立退き、その後江戸に出て深川で幕吏らと立ち回りを演じ、自害した。この大騒動に幕府も介入せざるを得ず、重益は家中の仕置よろしからず、そのうえ家臣を餓死させるは非道なりとして改易処分となった。

有馬氏の入封と財政難

本多氏が改易になった後、入れ替わりに越後糸魚川から有馬清純が5万石で入封する。清純はローマ法王に少年使節を派遣したキリシタン大名有馬晴信の子孫であった。
晴信は慶長15年(1610年)にキリスト教を隠れて信仰し、京都の大仏や長崎の町などを焼き払おうとした罪などで幽閉される(有馬世譜によるが真偽はわからない)が、嫡子直純が家康の寵愛深く、家督を許されたばかりか大名家としても存続した。
その後日向延岡、越後糸魚川と移り、丸岡に転封となった。

清純の前封地糸魚川は城地もなく、土地もやせて生産性も低かった。これは日向延岡で苛政が原因で、農民の逃散事件がおき、その為の懲罰的な転封であったためである。
糸魚川に移ったのが元禄4年(1691年)のことで、4年間の隠忍のあと、城のある丸岡に移ってきたのだった。
しかし、その丸岡も肥沃ではない上に、土地も狭く丸岡城下だけでは家臣の屋敷にも不足するほどであったという。
このため有馬氏は最初から財政難であり、元禄10年(1697年)から同12年にかけて大量に家臣を整理している。丸岡入封時に322人いた藩士は、元禄12年(1699年)には185人にまで減らされている。

有馬氏は清純の後、一準-孝純-允純と家督を継承するが、代々すべて財政難との戦いであったといっても過言ではない。
すでに清純の代に家臣の家禄を2割カットしているが、一準の代には上級藩士の家禄の更なるカット、藩札の発行。
孝純の代には寄合組以上の上級藩士の禄高をすべて3百石にしたほか、銅山の開発に着手(結局、失敗に終わった)、允純の代には組頭制度を廃止するなどの行制改革を行っている。

一方、これに対して享保9年(1724年)には大規模な農民一揆が起きている。直接の原因は前年に発生した九頭竜川の洪水とそれに伴う不作であったが、藩の財政難による厳しい年貢取立てに農民の不平不満が爆発したものである。
最初、藩はかなり一揆に妥協的であったが、一揆側の足並みが揃わず、結局19項目の要求のうち、10項目は従来通りで、9項目が受け入れられたという。(受入項目などの詳細は不明である)

名君誉純

有馬允純が安永元年(1772年)に26歳の若さで病没すると、その養子誉純が封を継いだ。襲封時わずか4歳であり、このころの丸岡藩の財政は極度に困窮していた。
そのために年貢の前納制度を実施した。実際は貧困な農民にそのような余裕はなく、利息を払って金を借りて納めるのであるが、利息分だけ農民の負担増となり、これが遠因となって安永8年(1779年)に再び大規模な一揆が起きる。

安永の一揆の直接の原因はこうであった。
前納された年貢はのちに正式な納入時の相場換算で清算されるのであるが、このときは前納時の相場の方が高く、従って年貢の納め過ぎになっていた。
よって藩では納め過ぎた分を返還したのだが、この返還分を大庄屋が着服したというのである。農民たちは「ひだるい、ひだるい」(腹が減ったの意味)と叫び、各村の大庄屋の打毀しを始めた。
特に日頃から権勢ずくで農民に接し、評判の悪かった福島村の平木弥次右衛門や野中村の鰐淵三五右衛門らの被害が大きく、逆に過納分を農民に返還した長畝村の高桑権右衛門は全く被害にあっていない。

大庄屋を打毀した一揆勢は城下に押し寄せた。その数1万と言われ、藩側も衝撃を受けて一揆勢に善処を約し、一方一揆側も人数の多さに統制が取れなくなり3日後に解散している。
一揆側の要求のうち、前納制については聞き届けられなかったようであるが、大庄屋の廃止など大庄屋制度の改革は実施された。
この一揆の時に誉純は10歳であったが、誉純は後に元の大庄屋を中心に郷会所を設立させて、連帯責任において年貢の取立てにあたらせている。
つまり貧困で年貢を納められない農民の年貢は、富裕層であった元大庄屋が立替えることになったわけで、これによって藩財政を安定させようとするものであった。

これに加えて安政8年(1796年)に大坂の豪商加島屋作兵衛が藩の勝手向きを引き受けることによって、財政は一時的な立ち直りを見せた。
この財政の立ち直りを背景に誉純は藩校平章館を開設し、藩史・地誌の編纂など文化文教事業を行った。
誉純は幕政にも関与しており、寛政3年(1791年)奏者番、文化7年(1810年)寺社奉行兼帯、文化9年(1812年)西丸若年寄になっていて、このことが文化文教政策に熱心であった一因であることは間違いないところである。

幕末の丸岡藩

誉純の代に一時的に立ち直った藩財政は、文政期(1818~29年)に入ると再び悪化し、やがて天保の大飢饉となる。
この時期、徳純、温純と家督は継がれたが、いずれも病弱短命であった。温純の代には海防のために越前海岸の梶浦から浪松浦にかけて台場を築いている。
安政2年(1855年)4月に温純がわずか29歳で死去すると、最後の丸岡藩主となる道純が家督を相続した。

道純は誉純の伯父であった播磨山崎城主本多純高(忠可)の曾孫にあたり、本多家から養子に入った。
道純は万延元年(1860年)奏者番、文久2年(1862年)寺社奉行兼帯、文久3年(1863年)正月若年寄となり、2月に外国掛、7月に老中となっている。
天保の飢饉で大きな打撃を受けた藩財政は、その後も好転せず農地は荒廃しており、財政は富裕層からの借金に頼らざるを得ない状況であった。
しかし、この頃になるとかつての富裕層であった地主や商人の経済状態も悪化しており、藩全体が破綻寸前であった。

一方、道純は老中として将軍家茂の上洛に随従し、第一次長州征伐では松江城主松平定安の後詰となり、第二次長州征伐では兵庫の警備を担当した。
藩の軍制改革では、引き続き海防のための砲台の増修築や洋式砲術の導入に努めた。
このような状態で幕末を迎えた丸岡藩は容易に佐幕か勤王かを決せなかったが、概ね佐幕の立場であった。しかし北陸道鎮撫使の通過にあたり、帰順してその傘下となって維新を迎えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
江戸三百藩の表紙に戻る
歴史の勉強

Last modified -