歴史の勉強

勝山藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
松平(越前)直基 寛永元.6~寛永12.8
1624~1635
3.0 越前大野へ
松平(越前)直良 寛永12.8~正保元.3
1635~1644
3.5 越前木本より
越前大野へ
小笠原貞信 元禄4.7~元禄15.7
1691~1702
2.2 美濃高須より
小笠原信辰 元禄15.7~享保6.4
1702~1721
2.2  
小笠原信成 享保6.4~享保15.7
1721~1730
2.2  
小笠原信胤 享保15.9~延享2.6
1730~1745
2.2  
小笠原信房 延享2.6~安永9.11
1745~1780
2.2  
小笠原長教 安永9.11~寛政11.3
1780~1799
2.2  
小笠原長貴 寛政11.5~天保11.3
1799~1840
2.2  
小笠原長守 天保11.5~
1840~
2.2  

勝山藩は越前勝山藩ともいい、江戸時代初頭に越前松平家の衛星的な小藩として成立した。
越前松平家は、家康の二男で豊臣秀吉の養子となった結城秀康が、関ヶ原役後に福井68万石に封じられて起こした家であるが、相次ぐ御家騒動で、その度に藩領が縮小されていった。
勝山の地もその余波を受けて一時天領となったが、元禄4年(1691年)に美濃高須から小笠原貞信が2万2千7百石で入封し、明治まで八代180年に渡って支配した。

勝山藩の成立

戦国時代に越前国を領していたのは、一乗谷に本拠を置いた朝倉氏であったが、勝山の地は天台宗白山平泉寺が支配しており、その門前の若猪野、上高島、北市、下高島、下毛屋、猪野毛屋、猪野の村々が寺域とされていた。
平泉寺は領主朝倉氏と良好な関係を維持し、そのために加賀を中心に猛威を振るった一向一揆とは対立する関係にあった。
天正元年(1573年)8月に朝倉氏が織田信長によって滅ぼされると、越前の地は一向一揆が荒れ狂い、平泉寺も焼き討ちされた。

一向一揆は対立していた平泉寺を攻撃するために、平泉寺から4キロほど離れた村岡山(むろこやま)に城を築き、平泉寺焼亡後は戦勝を祝して、村岡山を勝山と改めた。これが勝山の由来である。
越前の一向一揆の繁栄は長くは続かず、織田軍の攻撃にあって平定され、天正3年(1575年)には織田の将柴田勝家が越前北ノ庄(のちの福井)い入る。
勝山は勝家の一族柴田義宣に与えられたが、義宣は一向一揆との戦いで戦死し、その跡を勝安が継いだ。

一揆を平定した勝安は天正8年(1580年)勝山の城を地名ごと袋田村に移した。これが現在の勝山の地となる。柴田氏は信長死去後に秀吉によって滅ぼされた。
豊臣時代の勝山には秀吉側近の成田重政、堀秀治、青木一矩らが入れ替わり入り支配した。
関ヶ原役の際に越前を支配していた諸将はほとんどが西軍に与し、為に戦後越前国は家康に没収されて、その二男結城秀康に与えられた。
勝山は福井藩領となり城代林長門が派遣された。林長門は慶長17年(1612年)に罪を得て追放され、代官水戸三七、天野伝右衛門に代る。

寛永元年(1624年)になって秀康五男の松平直基が3万石で封ぜられ、寛永12年(1635年)に越前大野に転じる。
代って秀康六男の松平直良が3万5千石で木本から入った。正保元年(1644年)直良も越前大野に移り、勝山の地は再び福井藩領になった。
貞享3年(1686年)には天領となって幕府から代官が派遣されるが、元禄4年(1691年)に小笠原貞信が美濃高須より2万2千7百石で入り、以後明治まで信辰-信成-信胤-信房-長教-長貴-長守と相伝して明治に至った。

小笠原氏の入部と勝山城

小笠原氏は清和源氏の流れを組む名門であり、室町期に深志系と松尾系の二系統に分かれた。小笠原流礼法で有名な深志系は江戸時代には豊前小倉15万石の大名となった。
一方の松尾系が勝山小笠原家の祖である。早くから家康に与していた松尾小笠原氏は譜代の扱いであり、江戸時代初期に下総古河、次いで下総関宿の城主であった。
寛永17年(1640年)貞信は養父政信の遺領を継いだが、幼年であったために「城主に耐えず」とされ、関宿から美濃高須に転封となった。

高須の地は水害多発地帯であり、貞信は領地替を願い出ており、高須在封50年後の元禄4年(1691年)に勝山に転封となったものである。
しかし勝山の地は雪深いうえに高須同様城も無く、城主への復帰を夢見ていた貞信にとっては喜ばしいものとは言えなかった。
勝山に移っても貞信は、城主への復帰を願い続け、親族、家臣も陳情した結果、次代の信辰のときの宝永5年(1708年)6月に築城が許可された。

さっそく縄張りを始めて工事にかかったが、2万余石の小藩であり財政的にも苦しい状況であったために城の規模は小さく、工事の進行も緩慢であった。
天守は完成したものの、その後は工事は遅々として進まず、信辰が死去し信成の代になると中断された。
享保年間には災害も相次いで財政は逼迫して工事どころではなくなったが、その後信房の代の明和5年(1768年)に再開にこぎつけた。

信房は祖先の志を継ぐとして工事を再開したのであり、無理やりの再開の感が強かった。財政に犠牲を強いての工事は順調には進むわけはなく、3年後に本丸御殿などが完成したのみで再び中断した。
次の長教は寛政5年(1793年)に工事を再開するが、文政5年(1822年)に出火によって、城のほとんどを焼失した。
このときは領内から半ば強制的に見舞いが献じられて本丸御殿などは再建されたが、結局それ以外は焼失したままで廃藩置県となり、小笠原氏の夢は果たされなかった。

相次ぐ騒動

勝山藩は小藩であり、勝山入部時には既に財政的な苦境に陥っていた。しかし小笠原氏の格式は比較的高く、譜代ゆえに大坂加番など公役負担も多かった。
そのために入封時に家臣団を整理したが、基本的には年貢の増微策をとらざるを得なかった。それに加えて元禄8~9年(1695~96)にかけて災害や凶作に襲われた。
元禄10年(1697年)春に生活に苦しむ農民達は江戸の藩邸への越訴を決意した。

この越訴は年貢率の引き下げこそ認められなかったが、年貢納入時期や借用米金の返済、町米問屋の廃止など、そのほかの要求はほとんど認められた。
また、役人が藩主に無断で米金借用に及んだのが事件の原因として、今後一切このような行動をしないことを条件にして農民への処分もなく、結果的に越訴は成功であった。
一方、これは藩側にとっては大きな損失となり、この一件をもって藩の重臣間に対立を招いたとされる。

元禄騒動において農民側は一定の勝利を得たものの、根本的に生活が改善されたわけではなく、また藩財政はその後も窮迫の度を増していった。
宝暦7年(1756年)には越前今庄郡や丹生郡の天領で大規模な一揆が起き、明和5年(1768年)には福井藩でも2万人といわれる一揆が発生して、勝山藩内にも動揺が伝わってきた。
一方、藩では明和8年(1771年)に幕府から人を得て定免制から検見制に切り替えて年貢の増微を図ろうとしていた。
抜き打ち的に庄屋を集めて検見制への切り替えの承諾を得ようとしたことから再び騒動となり、結局新法中止のやむなきに至ったが、既にこのころには藩の権威は失墜し、農民側に一致団結した力の前にはなすすべも無かったことが見て取れる。

文化8年(1811年)になると大杉沢騒動といわれる、杉の伐採中止を求める一揆が起きる。
材木商と藩役人によって杉材が切り出されたことによって、保水が得られずに大水害が起きたことで騒動に発展したのであるが、このときも杉の伐採中止のほかに物価の高騰なども問題にされている。
大杉沢騒動の際には藩側は完全に傍観し、結局尊光寺など一向宗寺院の仲介によって騒動を治めている。
農民側の要求は全て認められており、藩は農民支配すら満足に行うことができない状況になっていた。

藩政改革と幕末の勝山藩

天保年間に入ると全国的な飢饉となり、勝山藩もそれを免れることはできなかった。農民は一揆を起こすエネルギーもないほど疲弊し、藩財政は極度に悪化して破綻寸前となった。
天保11年(1840年)に林毛川が家老になり、藩政改革を主導した。毛川の改革の要点は人事の登用が先ず第一で、すぐれた人材を登用することによって、理非曲直を叫して賞罰を行い、さらに町廻や足軽の威勢強いのを叫す為に目付を重視すると、在所の風儀も改められ、民政が安定するというものであった。
その第一の人材登用、人材育成のために藩校成器堂が開設され、手当金を出して江戸、大坂、長崎などへ藩士の遊学を勧めた。

一方、これと並んでこの頃武備の充実も叫ばれた。幕末に至り諸藩でも武備の充実は急務であったが、勝山藩では藩の鉄砲場のあった長山に講武台を築くことにした。
長山は城から800メートルほど離れた小高い山であったが、これを崩して武術の調練場とする計画であった。
嘉永元年(1848年)に工事が始められて、工事途中の嘉永3年(1850年)には大規模な軍事訓練が行われ、嘉永5年(1852年)には講武台が完成した。
これと平行して民兵や軍用人足も組織的に挑発され、文久2年(1862年)には町人の希望者にも砲術や槍術の稽古が認められるようになった。

毛川は最大の課題である財政再建については、御用金や供金に頼る体質を改めようと、殖産振興等を推進した。
煙草、菜種、蚕糸の生産が奨励され、特に煙草は勝山の特産品として福井へも売り出されていた。
また、倹約令を布れて物価の引下げや風紀の乱れを取り締まった。しかし、毛川の改革の目指すところは封建秩序の継続であり立て直しであってその域を出ず、一時しのぎにはなっても全国的な封建制度の崩壊の前には改革の破綻は免れなかった。

結局毛川は詰め腹を切らされることになる。安政2年(1855年)に藩主長守は、直書を申し渡す。長守は低姿勢に終始して率直に悪政を詫び、暗に献金をせよと強制し、悪政を主導したとして林毛川らを処分した。
毛川は閉門蟄居となり、ほかの重臣たちもことごとく罷免された。長守の責任逃れともとれる行動であったが、これは取りも直さず改革が破綻したことを意味していた。
慶応元年(1865年)に藩主長守は京都の嵯峨、太秦付近の警備に従事し、戊辰戦争が勃発すると竹田街道を警備した。
新政府が成立すると東北方面に向う新政府軍に弾薬2万発を献上し、恭順の意を表している。こうして廃藩置県となり勝山藩は未完成の勝山城とともに終焉を迎えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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