歴史の勉強

高田藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
松平(長沢)忠輝 慶長19.8〜元和2.7
1614〜1616
75.0 越後福島より
改易
酒井家次 元和2.10〜元和4.3
1616〜1618
10.0 上野高崎より
酒井忠勝 元和4.8〜元和5.3
1618〜1619
10.0 信濃松代へ
松平(越前)忠昌 元和5.3〜寛永元.3
1619〜1624
25.0 信濃川中島より
越前福井へ
松平(越前)光長 寛永元.3〜天和元.6
1624〜1681
26.0 越前北ノ庄より
改易
稲葉正通 貞享2.12〜元禄14.6
1685〜1701
10.3 相模小田原より
下総佐倉へ
戸田忠真 元禄14.6〜宝永7.8
1701〜1710
6.7 下総佐倉より
下野宇都宮へ
松平(久松)定重 宝永7.閏8〜正徳2.9
1710〜1712
11.3 伊勢桑名より
松平(久松)定達 正徳2.9〜享保3.9
1712〜1718
11.3  
松平(久松)定輝 享保3.10〜享保10.10
1718〜1725
11.3  
松平(久松)定儀 享保10.10〜享保12.9
1725〜1727
11.3  
松平(久松)定賢 享保12.11〜寛保元.11
1727〜1741
11.3 陸奥白河へ
榊原政永 寛保2.4〜寛政元.5
1741〜1789
15.0 播磨姫路より
榊原政敦 寛政元.5〜文化7.8
1789〜1810
15.0  
榊原政令 文化7.8〜文政10.11
1810〜1827
15.0  
榊原政養 文政10.11〜天保10.3
1827〜1839
15.0  
榊原政愛 天保10.3〜文久元.8
1839〜1861
15.0  
榊原政敬 文久元.10〜
1861〜
15.0  

高田藩の成立は家康六男の忠輝が越後福島から高田に新城を築き移ってきたことに始まる。しかし忠輝は高田にあること2年で改易。酒井氏と松平忠昌の短い治世のあと、福井から松平光長が入った。
しかし光長は継嗣を巡る有名な越後騒動で改易され、天領時代を経て稲葉・戸田両氏が入り、その後に松平(久松)氏が入る。ここまでは非常に目まぐるしく領主が変わった。
松平(久松)氏は短命な藩主が多く、5代30年で白河に転封、その後姫路から榊原氏が入った。榊原氏の入封もいわくつきで、先代政岑が吉原の遊女を身請けし、幕府の咎めを受けての懲罰的な転封であった。榊原氏に至ってようやく藩主が安定し、幕末まで続いた。

高田開府

高田開府以前の越後の中心は長らく春日山であった。謙信で有名な上杉氏は、秀吉晩年の慶長3年(1598年)に会津に移封され、変わって越前から堀秀治とその寄騎大名が入った。
堀氏は上杉氏の本城であった春日山(上越市)に入り、その寄騎だった溝口氏は新発田(7万6千石)、村上氏は本庄(9万石)に配置された。
関ヶ原で家康についた堀氏は本領を安堵され、戦後慶長11年(1606年)に秀治は死去、嫡子忠俊が封を継ぎその翌年、かねてより工事をしていた福島城が完成し、春日山城を廃して福島に移った。

しかし、一族の内紛から慶長15年(1610年)に堀氏は改易となり、福島にはその翌日、家康六男の松平忠輝が入り75万石を領した。
忠輝は家康の愛妾茶阿局が生んだ子で、名門の長沢松平氏の家督を継いだが、家康からは嫌われていたらしい。
長沢松平氏の領した武蔵深谷を皮切りに下総佐倉を経て信濃川中島18万石の領主であった。川中島はそのままに越後一帯が加増された形での入部である。
忠輝は水難を避けるために、福島の南8Kmの菩提ヶ原に新城を築くことにし、生母茶阿局を通じて幕府に願い出た。

幕府としても前田、上杉牽制の観点からこの付近を重要地点と考え、江戸城・駿府城・名古屋城などと並んで国役普請で行うこととし、忠輝の岳父伊達政宗を普請総裁にして手伝いを加賀藩など13の外様大名に命じた。
高田城築城工事は慶長19年(1614年)3月15日に着手し、7月上旬に完成という早さであった。
規模は、内郭(本丸・二の丸)東西300間、南北470間、土居廻り1570間、外郭(三の丸)東西611間、南北763間という広大なもので、城下には旧春日山、旧福島の両城下にあったものを根こそぎ移したとされる。

忠輝の付家老に大久保長安がいた。長安は佐渡奉行も兼ねていて、佐渡金山はその頃が最盛期であった。
佐渡の金は小木港から船で出雲崎に運ばれた後、馬で柏崎を経て高田に送られた。そのため、高田の宿駅伝馬もこの頃に多いに発展したという。

忠輝の改易

慶長19年大坂冬の陣の際に忠輝は江戸城留守居を命じられた。血気盛んな忠輝はこれを不満とし、わざと出発を遅らせ、岳父伊達政宗の催促でやっと江戸に向かったという。
翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際には北陸方面軍の大将となったが、行動はいたって緩慢であり道明寺の戦闘に遅参し、功一つなかった。
さらに近江守山で行列の先を乱したとの理由で、旗本の長坂十左衛門と伊丹弥三の二人を切り捨てた。

家康と将軍秀忠はこの報告に怒り、家康は忠輝のもとに使者を派し「以後対面を許さず 早々に下手人を差し出せ」と申し渡した。しかし忠輝は正当性を主張するばかりで、下手人を出さず、家康と秀忠の不興をかった。
元和2年(1616年)4月に家康が死去すると、秀忠は忠輝に対して家康の遺言と称して、改易を申し渡す。
忠輝は伊勢朝熊に流され、その後飛騨高山、信濃諏訪と移されて天和3年(1683年)92歳の天寿を全うする。

忠輝改易の表向きの理由は大坂の陣での怠慢のほか、領内での乱行などが上げられるが、幕府転覆の陰謀にも加担していたともされている。
忠輝の付家老であった大久保長安の死後に、長安に不正ありとして屋敷を捜索したところ、将軍秀忠を滅ぼして忠輝を将軍とするという切支丹大名の連判状とイスパニア王へ援助を要請する書状が見つかったという。
天下の一大事であるが、公式に対処することも出来ず、大坂の陣の怠慢を言い立てて、徳川幕府安泰のために忠輝処分を断行したともいう。

松平光長の入部

忠輝の改易後に上野高崎より酒井家次が10万石で入る。家次の父忠次が徳川四天王と呼ばれ、のちに出羽庄内藩主となる左衛門尉流の酒井家である。
家次は在封1年半で死去し、跡を忠勝が継いだが在封1年で信濃松代に転封となる。その後に入ったのが松平(越前)忠昌で、信濃川中島から移され石高は25万石であった。
忠昌は越前松平家の忠直の弟であったが、兄の忠直が乱行の末改易になると、その後任として越前北の庄(福井)に50万石で転封となった。高田在封は5年であった。

越前松平家は家康の二男で豊臣秀吉に養子に出された秀康が起こした家で、二代忠直は将軍秀忠の甥にあたる。
そのために制外の家とも言われ、また御三家と合わせて四家とも言われ、格式の高い名門であった。しかし忠直には狂気の気があり乱行治まらず、ついに改易となった。
この忠直の長男が光長で忠直改易当時まだ10歳であった。光長の祖父は秀康、父は忠直、母は将軍秀忠の三女勝子であり、さすがに越前家を潰すわけにはいかなかった。

そこで幕府は光長に越前家を継がせ、越後高田に26万石を与えて移した。越前家の祖秀康の子二人の系統を入れ替えたのである。
光長の封地は頸城郡全域、刈羽・三島・魚沼の各郡の一部と信濃川中島にまたがり、その後に新田開発を推進した結果、表高26万石に対し、実高は40万石にもなったという。

光長の時代はのちに「越後様時代」と言われるほど政治が安定し、高田城下も繁栄した時代であった。
その功績は首席家老の小栗正高と荻田隼人によるところ大であった。小栗は1万7千石で将軍謁見の大身、荻田は1万5千石で糸魚川城代であった。
彼らは大瀁・大潟・中谷内・保倉谷などの新田開発を行い、高田城下の地子銭を免除し、藩の財政は潤った。

越後騒動前史

順風満帆の高田藩に突然災いが降りかかったのは寛文5年(1665年)12月27日のことであった。この日大地震が高田を襲い、しかもこの年は積雪が多く、火災も発生して高田城下の被害は甚大であった。
武家屋敷700以上が倒壊、町屋もほとんどが倒壊するか焼失した。死傷者は武士160人、町人1500人に上ったが、その死者の中に小栗正高と荻田隼人がいた。
光長入部以来、光長を補佐し高田藩を繁栄に導いた二人の重臣の死は、高田藩にとって大きな暗雲となった。

小栗正高の跡はその子美作が、荻田隼人の跡はその子主馬が継いだ。美作は首席家老として幕府から5万両の借入れに成功し、半分を高田城の修復費に宛て、残りを町人に貸し付けて震災復興を主導した。
一方主馬は三の丸の瓢箪島の修復工事に失敗、主馬に替わった美作が工事を完成させた。家老就任早々主馬の面目は丸つぶれとなった。
これが小栗美作と荻田主馬の対立の発端となった。そこに光長の弟永見大蔵がからみ越後騒動に発展する。

小栗美作は震災復興が一段落すると新田開発、治水事業、銀山開発、タバコの改良増産などに辣腕を振るい、富国政策を推進する。藩主光長の信頼も厚く、これは主馬側から見れば嫉妬の的であった。
やがて美作の最初の躓きが起こる。それは知行制から蔵米制への移行であった。蔵米制はいわゆる俸給制で、家臣は知行地を持たず、藩から蔵米を給与のように支給される。
これは高田藩だけではなく、近世の統治は蔵米制で行われている。しかし知行制ではある程度自身の勝手ができ、蓄財も可能であったが蔵米制ではそれができずに移行時には家臣に不満が残った。

高田藩でも蔵米制への移行で不満がたまっていたところに世継ぎ問題が起きた。光長の嫡子綱賢が宝永2年(1674年)に42歳で死去した。
光長にはほかに男子はなく綱賢にも男子がなかった。そのために綱賢に代わる世嗣を立てなければならなくなった。
候補は三人いた。一人は永見万徳丸。もう一人は永見大蔵。そして小栗大六である。

光長の父忠直は改易になり豊後萩原に流されたが、その配所で二男一女を設けた。忠直二男となるのが永見市正であったが、この当時市正は既に死去し、その遺児が万徳丸である。
忠直三男にあたるのが永見大蔵、忠直長女はおかんといった。おかんは小栗美作に嫁し、美作とおかんの間に生まれたのが大六であった。
のちの俗説越後騒動では小栗美作が自子大六を光長世嗣にしようとして陰謀を巡らしたというのが筋であるが、実際はまったく違う。

越後騒動

光長の世嗣となったのは永見万徳丸で、正式に養子となり将軍家綱から一字を貰い綱国と改名した。
血の繋がりでいえば永見大蔵が最も光長に近いが、大蔵は50歳を越えている。また大六は血筋とはいえ家臣の子で、ほかに候補がいないわけではない。
一方の万徳丸はこの年17歳、消去法で万徳丸が世嗣となったのは当然であった。しかし永見大蔵にすれば諦め切れなかった。

さらにこのころには藩財政が逼迫してきた。新田開発で潤っていた藩庫も大地震の復興、さらに新田開発や築港などへの先行投資、光長と生母勝子の浪費などで底をつき、小栗美作は増税と御用金の徴収、蔵米制への移行、人材登用などで財政再建を図ろうとした。
しかし他の重臣や家臣から見れば痛みを伴ううえに、独善的であり、取り立てた新たな人材を自派閥に取り込もうとするものと見なされた。
俄然反美作派が勢い付く。その筆頭は荻田主馬であり、そこに永見大蔵が加わった。

反美作派は自らを「お為方」と呼び、美作派を「逆意方」と呼んで攻撃した。「お為方」は約890人、対する美作派は130人ほどである。高田藩士のほとんどが反美作派についた。
「お為方」は美作の屋敷を襲撃するが、美作は相手にせず大事には至らなかった。しかしこの騒動は幕府の知るところとなった。
下馬将軍とも言われ、権勢並ぶものなかった大老酒井忠清は、永見大蔵ら首謀者5名を他家お預けの処分にし、越後騒動は終結したかに見えた。

光長の改易

延宝8年(1680年)に四代将軍家綱が死去、跡を継いだのは家綱の末弟である綱吉であった。綱吉は将軍になると決着が着いた越後騒動を再審、自ら裁いて光長を改易にした。
これには将軍の世継ぎ問題が絡んでいた。家綱には子がなく、危篤状態になったときに当然世継ぎ問題が起きた。
候補は家綱の末弟館林藩主綱吉と甥の甲府藩主綱豊(家綱の次弟綱重の子)であり、大勢は綱吉に傾いていた。

しかし大老酒井忠清は、大奥の妻妾が懐妊していることを理由に「もし後日 男子出生となれば事が面倒。この際鎌倉幕府の先例に倣い、京の宮家から親王を将軍に迎えよう」と提案した。
これには老中堀田正俊が猛然と反対、結局堀田の正論に他の老中らも賛成し、綱吉が五代将軍となったのである。
酒井忠清が考えていた親王とは有栖川宮幸仁親王で、親王の母は松平光長の妹寧子であった。当然裏では光長が酒井を動かしたのであろう。

綱吉にとっては酒井忠清と松平光長が許せなかった。忠清は綱吉の将軍就任直後に隠居し、その3ヵ月後の死去した。
綱吉は忠清死去の際に酒井家取り潰しの口実を得るために、検視の使者を二度も出したくらい忠清を憎んでいた。
しかしいくら綱吉でも死んだ者に復讐はできないし、酒井家も取り潰しの口実を与えなかった。勢い復讐の矛先は光長に向く。

「お為方」から再審の願いが堀田正俊に出されたことを取り上げて、綱吉は自ら越後騒動を裁いた。というか目的は松平光長の改易だから騒動の結果などどうでもよかった。
忠清のつけた決着を覆し、光長を処分すれための親裁だから結果は最初から明らかであった。
小栗美作・大六父子は切腹、美作の弟二人は伊豆大島に遠島。永見大蔵・荻田主馬は八丈島に遠島。
光長は改易となり伊予松山の松平久松家へ預けられ名門高田藩は取り潰された。

質地騒動

松平光長改易後の高田藩領は、4年間天領となった。高田城には1年交代で2人づつの大名が在藩し、実質的には幕府が派遣した代官が統治した。
しかし在番の大名は義務として努めるだけだし、代官も頻繁に交替するために、責任ある統治は望めず、高田城下の治安は乱れ城下は一気に衰退した。
「諸国まで高く聞こえし高田さえ、今来てみれば低くなりけり」との狂歌まで読まれたのもこのころであった。

この天領期間に幕府は旧高田藩領の全域に大掛かりな検地をした。検地は徹底して行われ、頚城郡だけでも6万3千石の新規打ち出しがあった。
越後の検地は太閤検地以来、ほとんど行われておらず、光長時代の検地もひどく杜撰であった。幕府はそこに目をつけ、大儲けをした。

天領の4年間を経て高田には貞享2年(1685年)稲葉正通が小田原より10万石で入り在封16年で下総佐倉へ転封。
入れ替わりに佐倉から戸田忠真が6万7千石で入り、在封9年で下野宇都宮に転封。
その後に伊勢桑名から松平(久松)定重が11万3千石で入った。久松松平氏は、その祖俊勝が家康の異父弟にあたるために松平姓を許された家で、宗家は伊予松山12万石であった。

久松松平氏は定重、定達、定輝、定儀、定賢と五代31年在封し、寛保元年(1741年)に陸奥白河に転封となる。
久松松平氏の政治は比較的厳格であり、そのために農民は以前にも増して困窮した。この松平氏の在封中、定輝の代の享保6年(1721年)に近隣の天領で質地騒動が起きた。

質地とは文字通り質入された田畑のことである。幕府は享保の改革の一環として、農民が質入した田畑が質流れにならぬように質地条目を公布した。
これは農民が高利貸しに牛耳られぬように保護し、安心して耕作に励めるようにする趣旨のものであったが、吉岡村の百姓市兵衛らが、すでに質流れになった田畑も返却されるとして農民を扇動した。

これをきっかけに農民は各地で質田を強奪し、ついに頸城郡内で150村数千人が騒ぐまでになった。
幕府は、この騒ぎに高田藩に出動を命じ、定輝は家老服部半蔵、久松十郎右衛門の指揮のもと、多数の藩士を派遣し、厳格な態度で暴動を鎮圧した。
首謀者の市兵衛以下主だった者7人が磔、獄門11人、死罪12人、遠島20人、田地没収のうえ追放19人など処分も苛烈を極めた。
幕府は松平氏の功績を認め、定賢の代に陸奥白河に栄転した。

榊原氏の入部

久松松平氏に代わって姫路から榊原政永が15万石で入った。榊原氏の移動は左遷であった。政永の父政岑は豪勇奔放であり、将棋・三味線・浄瑠璃など芸事に通じており、遊里にも通った。
そして数度に度り遊女を落籍し、寛保元年(1741年)には江戸吉原の三浦屋高尾を2千5百両で落籍したことは有名である。
このことは世上に噂として広がり、さすがに幕府も黙ってはおけず、不行跡により政岑に隠居謹慎を申し渡した。

時あたかも享保の改革の只中であり、自ら範を示すべき立場にありながら放埓の限りを尽くすとは言語道断、本来なら改易となるところを藩祖康政の遺徳によって転封となった。
政岑は家督を嫡子政永に譲り姫路に蟄居、その後榊原家の転封により越後高田に移り、寛保3年(1743年)2月17日病死した。享年29であった。
将軍吉宗は政岑の高田への道中にも籠に綱をかけて罪人扱いし、墓も綱で覆ったという。
一説には政岑は尾張家の宗春とともに吉宗の将軍就任に反対し、その就任を阻止しようとしたための処分であるともいわれている。

とにかくそんな状態であるから榊原家は最初から財政窮乏状態であった。
高田は姫路に比べれば同じ15万石でも実収が全く違った。姫路では実収20万7千石であったものが、高田では15万2千石、さらに封地も頸城郡に6万石と陸奥国内に9万石に分かれていた。
そのほかに父政岑の遊興の借金も30万両に達していた。
そのうえ、高田入封後、寛保元年(1741年)の大雪、延享4年(1747年)の洪水、宝暦元年(1751年)の大地震、同3年の大火、同5年〜7年の凶作と災害が続き、財政は窮乏の一途を辿った。

これに対し藩では藩士の解雇や減俸、増税や新税のよる収入増、地主や商人からの強制的な借入などを行った。これらの無理は、やがて高田の町人や領内農民の騒動に発展した。
そしてついに政永は天明2年(1782年)、幕府に対して拝借金を願い出る。幕府では当初、前例なしとして貸出しを渋ったが、藩側の度重なる願いに、例外的な貸付を認めた。
しかも20年間無利息とされ、さらに8年間格式を5万石に下げることも許された。格式を下げるということは支出の減に繋がる。
なお、幕府が貸付に応じたのは、時の老中田沼意次に対し、江戸詰家老を通じて相当の賄賂を贈ったためとされる。

名君榊原政令

政永、政敦と家督が継がれたが藩の財政難は相変わらずであった。文化7年(1810年)に政敦が隠居し35歳の政令が家督を継いだ。
政令は、初入国の時も馬や駕籠を使わず、草鞋履きでの徒歩で行ったというほど財政再建に懸ける硬い決意を持っていた。
政令は政永・政敦の消極的再建策を捨て積極的な財政再建を進めた。思い切った人材登用、倹約令の発布、新田開発、用水の開鑿、内職の奨励、牧場の経営、温泉開発までやった。
例えば倹約令なども徹底しており、食事はどんな場合も一汁一菜、どんな儀式でも木綿ものしか着させなかった。

また、有名な話に按摩をよんで世上のことをを聞いた話がある。政令は時々城内に按摩をよんで肩を揉ませていた。
家老が意見をしても聞かず、ではと衣服を着替えさせて上がらせると怒った。政令は按摩の衣服から生活の程度を知ろうとしていたのだった。
肩を揉ませながら人払いした部屋で、世間の様子や物の値段などを聞いた。しまいには、城下のどこの豆腐屋の豆腐が安くて大きいか、などまで知っていたという。

この政令の財政再建で榊原家は持ち直し、天明・天保の飢饉の際には一人の餓死者も出さなかほか、幕府に5千石の献納をし、松代藩・秋田藩・二本松藩などに米を貸し付けたという。
また、兵法を洋式を取り入れて大砲を鋳造し、ペリー来航の際、その大砲を幕府に寄進している。
先々代政永、先代政敦の時代には破綻状態だった財政は好転し、領民の暮らしも楽になり、政令は領民から慕われ敬われたという。

幕末維新の高田藩

政令は在封17年で隠居し、家督を政養に譲ったが、その後も政養・政愛の二代に渡って政治を後見し、実質的に藩政を執った。
政令は文久元年(1861年)6月に死去した。政愛も政令の後を追うようにその2ヵ月後の死去し、家督は政敬が継いだ。

幕末の動乱期、将軍家茂に従い政敬も上洛。その後の二回の長州征伐のうち高田藩は第1次には不参加だったが、第二次には井伊家とともに先鋒を受け持った。
これは古く康政時代の伝統で、幕府軍の先鋒は井伊家と榊原家と決まっていた。しかし、岩国城攻撃で長州藩の反撃にあって敗北、一旦広島に兵を引いたがそこでも負けた。
その後家茂が死去して長州征伐は中止となったが、藩祖康政の面影など微塵ない榊原家であった。

慶応3年大政奉還が行われると高田藩の方針は、朝廷に従いこれを盛り立て、朝敵とされた慶喜の汚名挽回を図るというものでった。
これに従い藩では朝廷に慶喜の哀訴状を提出、一方で慶喜に朝廷への謝罪を勧めた。しかし哀訴状は却下され、その後勤皇と佐幕の間で揺れ動き態度未決の状態が続く。
やがて高田に官軍が入り、さらに山県有朋や黒田清隆など官軍幹部が来高し、高田が官軍の基地化するに及んで、官軍に恭順し、河井継之助率いる長岡藩攻撃を命じられた。

官軍に従い長岡城を落としたあと、越後各地の敵を平定、さらに官軍の一員として会津攻撃に参加し、その後会津の降伏者の一部は高田藩に預けられ版籍奉還さらに廃藩置県を迎える。
このように徳川家の先鋒として栄誉ある立場の榊原家であったが、最後は官軍として幕軍を攻撃することとなった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌(特に歴史と旅平成3年臨時増刊・秘録藩史物語)、関連ホームページ
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