歴史の勉強

新発田藩

藩主 在任 石高(万石)
溝口秀勝 慶長3.4〜慶長15.9
1598〜1610
6.0
溝口宣勝 慶長15.12〜寛永5.10
1610〜1628
6.0→5.0(分知)
溝口宣直 寛永5.10〜寛文12.9
1628〜1672
5.0
溝口重雄 寛文12.9〜宝永3.7
1672〜1706
5.0
溝口重元 宝永3.7〜享保3.11
1706〜1718
5.0
溝口直治 享保3.12〜享保17.閏5
1718〜1732
5.0
溝口直温 享保17.7〜宝暦11.1
1732〜1761
5.0
溝口直養 宝暦11.1〜天明6.閏10
1761〜1786
5.0
溝口直侯 天明6.閏10〜享和2.8
1786〜1802
5.0
溝口直諒 享和2.10〜天保9.8
1802〜1838
5.0
溝口直溥 天保9.8〜慶応3.8
1838〜1867
5.0→10.0(高直し)
溝口直正 慶応3.8〜
1867〜
10.0

越後国北部、下越地方の新発田から現在の豊栄・新津・白根・三条・見付とJR羽越線・信越線に沿った地域、いわゆる蒲原郡が新発田藩の藩領であった。
城下町新発田は藩領の最北部に位置し、領内は信濃川、阿賀野川、加治川などの河川が流れ、新発田藩の歴史は治水との戦いでもあった。

溝口氏の新発田入部

新発田はもともと揚北衆と呼ばれる豪族新発田氏が支配していたが、上杉景勝に滅ぼされて以後上杉家の領地となり、慶長3年(1598年)の上杉家の会津移封に伴い、その後に溝口氏が入った。
溝口氏はもともと丹羽長秀の与力大名であったが、丹羽氏は長秀の没後、豊臣秀吉に疎まれて長秀の嫡子長重は領地をどんどん減らされていった。
それに変わって秀吉の同僚であった堀氏が取り立てられ、溝口氏も堀氏の与力に付けられた。上杉家が会津に移されると、越前北ノ庄から堀氏が越後に移されたので、与力であった溝口氏も自然越後に移ることになり、新発田の地を与えられた。

入部した慶長3年というのは8月に秀吉が死去した年で、時代は急速に関ヶ原に向かって動いていく。2年後の慶長5年(1600年)に関ヶ原で徳川家康が勝利したことにより世は徳川時代に移るのであるが、堀氏一党は徳川与党であったため、所領は安堵された。
しかし徳川家は初期には外様大名、特に豊臣恩顧といわれる諸大名には厳しい目を向け、ささいなことで取り潰しを行った。
堀家や溝口氏同様に堀家の与力大名であった村上家は江戸時代初期にこの政策の犠牲となり、いずれも取り潰されている。
溝口氏については、藩祖となる秀勝が徳川氏に対し忠勤を励み、江戸城普請手伝いや家康六男の松平忠輝の居城となる越後高田城普請、大坂両陣への出陣などを積極的にこなし、家康・秀忠の信任を得、取り潰されることなく明治維新まで12代にわたり新発田を統治した。

初期の新発田藩政

秀勝から二代宣勝の時代は藩の基礎固めの時代であった。
この時期各地で取り潰されたり、減封になったりした諸大名の家臣が大量に浪人となっていた。会津の蒲生家、与力を勤めた堀家、同僚であった村上家、蒲生家の後に会津に入り騒動を起こした加藤家などからの浪人のうち有能な士を召抱えた。
それらは近隣諸藩に留まらず、越前や駿河をはじめ、肥前島原藩主高力隆長の遺臣まで召抱えたという。

秀勝が新発田に封じられたときは6万石であったが、宣勝が家督を継ぐ際に弟善勝に1万2千石(うち2千石は新田)を分知し沢海藩を立てた。
また、寛永5年(1628年)10月宣勝の死去により宣直が家督を継ぐ際に領内検地を行い、新たに打ち出した1万5千石を、宣直の弟宣秋に6千石、同宣俊に5千石、宣知に4千石をそれぞれ分与した。
沢海藩は新発田藩の支藩として4代76年続いたが、四代政親のときに騒動あって改易となった。

次いで新発田藩領内の地割りである。慶長10年(1605年)には家臣の知行地の割合が、総石高6万石のうち4万7千石余りと8割近くを占めていた。
その後の歴代藩主は、これを低め直轄領の割合を増加させる政策をとる。すなわち非違ある家臣や継嗣の際に減知を行い、新田は原則として直轄にするなどの方策をとり、その結果正保3年(1646年)には家臣知行地は3割程度にまでなった。
さらに家臣が勝手に知行地に行くことを禁じるなど、早い時期から実質的な録米制をとり、知行地は名目的なものとしていった。

城下町新発田の整備は長井清左衛門によって行われ、外濠に新発田川の水を取り入れ、新発田川から加治川を経て日本海と連絡できるようにした。
城の大手は城下を通る出羽街道に面し、城下の東側に町人地を設けた。新発田城の普請の完了は承応3年(1654年)というから、藩主は三代宣直のころ、普請完了までに約50年を要している。
しかし、その新発田城も完成後14年の寛文8年(1668年)4月の大火で焼失、さらに翌寛文9年には大地震があり、石垣普請からやり直さなければならなくなるほどの被害を受ける。
新発田城は寛文10年から、約30年間かけて復旧工事が行われ、その後幾多の補修を経て明治維新を迎えている。
なお、新発田城が復旧なった元禄14年(1701年)には城下の町屋が453軒、家臣団は録米制でほとんどが城下居住で武家屋敷は801軒であった。

治水と新田開発

新発田藩の藩領は今でも米どころといわれる越後平野の一帯であり、新田開発と治水事業の歴史でもあった。
歴代藩主は新田開発と農村整備に積極的に取り組んだ。特に新発田藩では組村制度を取り入れ、村の長を名主と呼び、村をいくつか束ねた組を大庄屋が支配した。
名主・大庄屋には地侍や土豪、のちには豪農を登用したが、他藩のように土着でも世襲でもなく、官僚のように任地を転々とした。能力が高かったり功績のあったものは、より物なりの多い地域に転勤できたこの制度は、新発田藩独特のものであった。

新発田藩の新田開発は信濃川流域から始められ、その後白蓮潟、福島潟、紫雲寺潟の干拓を行った。この新田開発は新発田藩の歴史と言ってもよく、そのために河川改修も積極的に行われた。それはまた、水害との戦いでもあった。
三代宣直の代の明暦元年(1655年)には、新発田川の改修付替工事を行い水害が大幅に減った。
延宝2年(1674年)には白根郷大通川改修が完成、正保年間には白蓮潟も開拓した。

六代直治の代の享保15年(1730年)に水害対策として松ヶ崎堀割開鑿工事を行い、また幕命により隣接地の紫雲寺潟干拓工事を助力した。紫雲寺潟干拓は次の直温の代に完成、1万6千石あまりが新発田藩の領地に組み入れられた。
これらの新田開発により幕末近い万延元年(1860年)には表高を5万石から10万石に高直しされたが、実高は20万石とも40万石とも言われるほど豊かであった。
しかし新発田藩の経済はこの米に頼りすぎ、米以外の産品がほとんどなく、藩も新田開発には熱心でも殖産振興には冷淡であったために、米相場の影響を受けやすく、不作の年はもとより豊作の年でも米相場が下落して、いわゆる豊作貧乏に見舞われるなど、藩財政には直結しなかった。

家中法度の整備

新発田藩の政治がもっとも安定を見たのは、四代重雄から五代重元の時代である。新田開発、治水により藩経済の基礎ができあがり、効果をあげだすと、新発田藩では文治政治に移行し、その手始めとして家中法度の整備が行われた。
延宝4年(1676年)にそれまでの家中法度を統合して、公儀・礼儀・婚姻・軍役など基本法的な「条々」、勤番・城内の秩序維持・家中生活の規則などの「諸事申渡覚」、江戸御供・領内出張などの規程「旅行前後御番休之事」、卒分及び御殿女中向けの「慎書之事」の四つの法度に再整理された。
以後新発田藩ではこれの法度が基礎となり、改廃されていく。正徳5年(1715年)にはさらに細かい分野まで法度に定められるようになった。

一方農民向けには「貞享五年庄屋名主共申渡覚」51条がが定められて、役人の心構え、年貢の納入、農村での禁止事項、衣食住にまでいたる細々した規定がされた。
その後も農村に対しては度々御法度が出されるが、そのほとんどは華美の禁止を中心とするもので、服装の規定や食生活、休日、集会の禁止、自給自足の強要などが基本である。
例えば正月・五節句・婚礼・法事などでも親子兄弟以外は招いてはいけないとか、衣類は男女ともに色物や染め抜きは無用であるとか、朝夕の食事は粥または雑炊にしろとか、実に細かい決まりがあったという。

また、城下町についても正徳4年(1714年)に13条の覚を出して、目立つ看板や暖簾の禁止、炬燵・火鉢・煙草の火は二階に持って行ってはいけない、暮れ六つ以降は無灯火のものの木戸の通行禁止など細々と規定している。
その後安永9年(1780年)に追加規定がされたが、町地については農村に比べて、制限は緩やかであった。

藩財政の窮乏化

新発田藩の決定的な欠点は米に頼る単一経済であったことで、さらに洪水や大火、地震に見舞われたことが多く、これが藩財政の窮乏を招いた。
加えて五代重元の代に諸門番や勅使接待、朝鮮通信使接待など公役が重なり、藩財政は徐々に悪化し始めた。
六代直治の代の享保4年(1719年)2月江戸の大火で屋敷を焼失、同年4月には城下新発田が大火に見舞われ城中も大半が焼失した。
さらに10月には大雨のよる洪水、11月に再び大火と災害が重なり、藩財政は急速に悪化し危機に直面した。

これ以後新発田藩の財政悪化は回復することなく幕末を迎えることになる。
藩では家臣の整理、家臣からの借り上げのほか村町に才覚金を申し付け、倹約を奨励し藩主自らも実践した。
だが、宝暦7年(1757年)には大洪水が発生して大きな被害がでるなど、藩財政の悪化は止まらなかった。
さらに領内豪商や大坂や京都の商人からの借金などで凌ぎ、家臣の減俸も恒常的に行われるようになった。

このような状況の中家督を継いだ八代直養は新発田藩中興の祖といわれ、村々に社倉を設けて不作に備えさせ、藩医師に庶民の治療施薬を無料で行わせている。
直養は学問も奨励し、安永元年(1772年)に道学堂を建て一般庶民の聴講を許している。安永5年(1776年)には医学館を設けて医学の研究と庶民の診療を行っている。
藩校の設立は全国的には遅かったが越後では最も早く、医学校の設立は鹿児島藩・熊本藩に次いで全国三番目であった。

幕末の新発田藩

直養はさらに領内の孝行者・善行者を表彰した。この表彰制度は次の九代直侯の代にも行われている。
直養のころに一息ついた藩財政であったが、直侯の代には天候不順が続き不作の連続で、さらに追い討ちをかけるように天明8年(1788年)の大雨で河川の決壊が相次ぎ、藩財政は逼迫した。
さらに外国船が日本の周囲に出没をはじめ、寛政5年(1793年)に異国船打ち払い令が出され、佐渡警固役を命ぜられた。
新発田藩は日本海に面しており、海防のための大砲や船の新造などでさらに財政状態は悪化した。

また直侯の代には越後2万石を上知、替わりに陸奥田村郡などで2万石を下知された。この交換は比較的高収穫の地を低収穫の地に替えられたばかりでなく、遠隔地の管理をすることとなり、さらなる財政損失を招くこととなった。
家臣は減俸に次ぐ減俸であるうえに武備を整えなければならず、農村も疲弊して人口は減り、藩では農民の移動を禁止せざるを得ないほどになった。

十代直諒の代には藩財政は完全に破綻し、領内には一揆が頻発し、特に文化11年(1814年)には蒲原・岩船・古志に大一揆が起き、天保8年(1837年)にも新潟に大規模な一揆が発生した。
藩では徹底的な倹約令を敷き、比較的余裕のある農民や町人から才覚金を出させた。才覚金は頻繁となり、しかもそれまではまがりなりにも利息をつけていたが、このころからは無利息となった。
なりふりなど構っていられず、豪農からも借金をした。遅ればせながら殖産振興をし、果樹栽培・養蚕・竹細工・菅笠つくり・機織・綿打ちなどであり、商業も認めたがすでに遅きに失した。

新発田藩の末期は財政破綻の中で迎えることとなった。
幕末の新発田藩は奥羽列藩同盟には加わらず、周囲の会津藩や長岡藩の催促に対してものらりくらりとして日時を稼ぎ、明治4年(1871年)8月官軍が新潟松ヶ崎に上陸してからは、官軍側に立ち維新を乗り切った。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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