歴史の勉強

山形藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
最上義光 元亀2.8〜慶長19.1
1571〜1614
57.0  
最上家親 慶長19.2〜元和3.3
1614〜1617
57.0  
最上義俊 元和3.5〜元和8.8
1617〜1622
57.0 改易
鳥居忠政 元和8.9〜寛永5.9
1622〜1628
24.0 磐城平より
鳥居忠恒 寛永5.9〜寛永13.7
1628〜1636
24.0 改易後弟忠春が信濃高遠に新封
保科正之 寛永13.7〜寛永20.7
1636〜1643
20.0 信濃高遠より
陸奥会津へ
松平(越前)直基 正保元.3〜慶安元.6
1646〜1648
15.0 越前大野より
播磨姫路へ
松平(奥平)忠弘 慶安元.6〜寛文8.8
1648〜1668
15.0 播磨姫路より
下野宇都宮へ
奥平昌能 寛文8.8〜寛文12.7
1668〜1672
9.0 下野宇都宮より
奥平昌章 寛文12.10〜貞享2.6
1672〜1685
9.0 下野宇都宮へ
堀田正仲 貞享2.6〜貞享3.7
1685〜1686
10.0 下総古河より
陸奥福島へ
松平(越前)直矩 貞享3.7〜元禄5.7
1686〜1692
10.0 豊後日田より
陸奥白河へ
松平(奥平)忠雅 元禄5.12〜元禄13.1
1692〜1700
10.0 陸奥白河より
備後福山へ
堀田正虎 元禄13.1〜享保14.1
1700〜1729
10.0 陸奥福島より
堀田正春 享保14.3〜享保16.2
1729〜1731
10.0  
堀田正亮 享保16.2〜延享3.1
1731〜1746
10.0 下総佐倉へ
松平(大給)乗祐 延享3.1〜明和元.6
1746〜1764
6.0 下総佐倉より
三河西尾へ
秋元涼朝 明和4.閏9〜明和5.5
1767〜1768
6.0 武蔵川越より
秋元永朝 明和5.5〜文化7.7
1768〜1810
6.0  
秋元久朝 文化7.8〜天保10.4
1810〜1839
6.0  
秋元志朝 天保10.4〜弘化2.11
1839〜1845
6.0 上野館林へ
水野忠精 弘化2.11〜慶応2.9
1845〜1866
5.0 遠江浜松より
水野忠弘 慶応2.9〜
1866〜
5.0  

山形藩概説

出羽国は現在の山形県と秋田県であり、江戸時代後期に山形県部分が羽前、秋田県部分が羽後に分かれた。
山形盆地を中心とする地域が現在の山形県の中心であるが、ここに戦国末期に最上氏が戦国大名として覇を唱えていた。
最上氏は外様大名であったが比較的早くから徳川家康に接近し、関ヶ原でも南隣の上杉氏と戦闘を行い、長年の功で戦後に置賜郡(米沢藩)を除く山形県一帯を封土とされ57万石を領する大大名となった。ここに山形藩が成立した。

その後最上氏は御家騒動から改易となり、その領地は大きく4分割される。
山形には鳥居氏が22万石で入るが、ほかの旧最上領は庄内は酒井氏、新庄は戸沢氏、上山は松平(能見)氏にそれぞれ与えられた。
いずれも鳥居氏とは縁故関係があり、鳥居一党として奥羽の押さえの役目が与えられていたらしい。
しかし、その鳥居氏も次の忠恒が無嗣で死去し、領地は一旦収公される。先祖の功により改めて弟忠春に3万石が与えられて、鳥居氏は信濃高遠に転封。

変わって高遠から三代将軍家光の弟保科正之が20万石で入り、7年の在封で会津へ転封となった。
奥羽の押さえとしての大藩の時代はここまでで、以後松平越前家、松平奥平家、堀田家、秋元家、水野家など譜代大名が入れ替わり立ち代り入り、失脚した老中などが関東から移る左遷地の感があった。
その交代も頻繁で最も長く在封した秋元家でも78年、最も短かった堀田正仲はわずか1年しかいなかった。
石高も徐々に減って最後の藩主水野家のころにはわずか5万石であった。

最上氏の時代の始まり

最上氏は羽州探題として室町時代初期に山形に入った斯波兼頼を祖とし、豊臣秀吉の時代には12代義光が当主であった。
義光は家督を継ぐと村山・最上両郡を平定したが、その北側には小野寺氏、南には奥羽随一の覇権を唱える伊達氏、庄内には大宝寺氏、その南の越後に上杉氏と周囲を有力な戦国大名に囲まれていた。

義光は村山・最上両郡を平定したあと、庄内に進出し苦労の末大宝寺氏を抑えて庄内を手中にしたが、そこに秀吉が関東に進出してきた。
庄内を勢力圏と考えていた上杉氏は、下越の本庄氏に庄内を攻撃させ、奪い取ってしまった。秀吉もこの事実を追認し、せっかく奪った庄内は上杉氏のものとなった。
義光がこの時に秀吉への取り成しを頼んだのが家康で、以後家康へ急接近していく。

義光は、秀吉が北条氏を滅ぼした小田原陣に参陣して、村山・最上両郡の本領は安堵されたが、この時の秀吉との謁見の際も家康に取次ぎを頼んでいる。
これにより義光は正式に山形城主となたったが、その領土は24万石ほどだったという。
義光は次女駒姫を秀吉の養子で関白を譲られた秀次の妻妾にしたり、家康に二男家親を小姓として差し出したりして、秀吉・家康にさらに接近し家の安泰を図る。
しかし秀次失脚により駒姫は処刑され、以後義光の家康への傾斜はさらに増す。

関ヶ原でその家康が勝利したことにより、義光も大きく飛躍する。
関ヶ原の際に義光は南隣の上杉氏(直江軍)の侵攻を受け、山形城の南わずか8Kmの長谷堂城まで攻め込まれたが戦線は膠着状態となった。
そこみ関ヶ原の東軍勝利の報が伝わり、直江軍は撤退した。
それらの功で義光は庄内と由利郡合わせて33万石を加増され、一挙に57万石の大封を得た。これは置賜郡を除く山形県全域と秋田県沿岸部南岸を合わせた広大な地域であった。

最上義光の死

最上氏の表高は57万石であったが、「最上家家臣分限帳」によると実高は77万石に達したという。
その最上氏の領内統治は、領内の要地に親族や重臣を封じるもので、家臣知行高は実に58万7千石ほどもあったという。ほかに寺社分が1万4千石余り、最上氏直轄の蔵入地が17万石ほどである。
家臣では由利郡の本庄氏の4万8千石を筆頭に、1万石以上の大名級が18人、5千石から1万石が16人もいたという。
そのほとんどは知行地に在しており、これは戦国期以前の統治形態であった。この状態は最上家の改易まで続き、大身の家臣の対立がその改易の原因であったことを考えると、近世大名に脱皮できなかった最上氏の限界がここに見える。

義光が、まず取り掛かったのは城下町山形の整備であった。この後義俊の代には山形の町数は31町、屋敷数は2千3百余りであったという。
町名は二日町、三日町などの市日町のほか鍛冶町や檜物町、蝋燭町などの職人町がある典型的な城下町であった。
義光はさらに、酒田を貿易港として整備し、酒田と内陸部を結ぶ最上川の水運を確保するために最上川の難所とされた碁点・三ヶ瀬・隼の三ヶ所を開削している。
さらに大宝寺を鶴岡と改めて、ここは将来の隠居城にするべく、新たに城下の整備をした。最上領内はどこも活気に満ち溢れていたことだろう。

このように順調に見えた最上家に家督問題が持ちあがる。慶長5年(1600年)義光は既に58歳になっていた。58歳といえば隠居して嫡子に家督を譲ってもおかしくない。
すでに嫡子の義康も30歳になっていた。義康の家臣からは家督相続に対する不満が高まる。しかし義光は家督を譲ろうとしない。
義光は江戸出府のおり家督問題を家康に相談、家康の意が最上家督は二男家親にあることを知る。
義光は山形に帰ると義康を呼び出家して高野山へ入山せよと命じた。義康は家督は家親と決まり、もはや抗いがたいものと悟ると近侍のもの十数名とともに山形を出て六十里越街道を西に向かった。
義光は土肥半左衛門に命じて、義康一行が庄内田川郡に入ったところを銃撃させて撃ち殺した。

最上家ではこの義康暗殺事件以後、家中の空気がなんとなく重苦しくなり、不穏の気が流れていたという。義光もそれを感じたのか、あまり表立っての行動しなかったようだ。
慶長18年(1613年)68歳となった義光は、死期を悟ったのか弱った体で無理をして駿府の家康のもとに向かう。家康と秀忠に今後の最上家のことを頼みに行ったのだった。
駿府で家康は義光を丁重にもてなし引き出物を与え、江戸では家親と秀忠が迎えて、秀忠は家康の意を受けて最上家の諸役の三分の一の免除を伝えた。
帰国した義光は立つことすら出来なくなり慶長19年(1614年)正月69歳で死去した。

最上家改易

義光の死後、最上の家督は既定方針通り家親が継いだ。しかしほとんどを家康・秀忠のそばで過ごした家親は、家臣との面識もあまりなく、義康暗殺以後の不穏な空気は払拭されない。
幕府も最上家中の状況を察知していたらしく、慶長19年(1614年)に幕府老臣土井利勝・酒井忠世・本多正信は連署して、最上家中に対し一致して家親を支えよとの命令書を出している。
慶長19年という年は、家康が大坂城の豊臣秀頼の処理を決め、この冬に大坂の陣が起きる年で、いきおい諸大名の動静に気を配ることになる。

ところが最上家中では、6月に鶴岡城下で事件が起こってしまった。
田川郡添川館の主一栗兵部大輔が手勢を率いて鶴岡城代の新関因幡守の屋敷を襲撃したのだ。一栗兵部大輔は家親の家督相続には反対であり、その弟の光氏の家督を願っていた。
この日、新関因幡守の屋敷には親家親の酒田城主の志村光清、大山城主の下秀実が招かれていて、一栗兵部大輔はそれを襲ったのだった。
不意を討たれて志村・下の二人は一栗勢にその場で討たれたが、新関因幡守の家臣によって一栗勢はことごとく討ち果たされた。
このことは家親の疑心悪鬼を生み、家親に光氏殺害の大義名分を与えるものでもあった。

一栗事件の直後に家親は大坂の陣で江戸に向かう。家親は大坂の陣では江戸城留守居であったが、その間に家臣に命じて光氏を討たせた。
大坂の陣での江戸城留守居役を無事に果たした家親は山形に帰国した。ところがその翌年の元和3年、山形城中で家親が突然死去してしまう。まだ36歳であり、あまりに唐突な死に毒殺されたとの噂も流れた。

幕府は嫡子義俊への家督相続を認めたが、
一、義光及び家親が定めた制度を守ること。
一、2千石以上の婚姻は幕府の許可を得ること。
一、訴訟裁断は今までどおり取り計らい、合議において決定しかねる場合は幕府に言上、指示を得ること。
一、義光及び家親の代に任じた有司は改変しないこと。改変する場合は幕府に届けること。
一、義光及び家親の代に追放した者を許さざること。
一、家臣への加増、新規家臣の召抱えは幕府に申請し、沙汰を受けること。
という条件をつけた。

これは半ば幕府の管理下にあるようなものであったが、仙台の伊達、秋田の佐竹、米沢の上杉と周囲の大藩に対する押さえとしての役割を与えられているのが最上家であることを考えれば、幕府のある程度の介入はやむを得ないことでもあった。
しかも家親の不審な死、さらに跡を継いだ義俊はまだ12歳の幼君である。通常なら転封になってもおかしくないのだから、幕府は家中が一致して義俊を補佐するものと考えたのであろう。

しかし、家臣間の対立は止まなかった。元和8年(1622年)義光の甥にあたる松根備中守は出府して、老中酒井雅楽頭に前藩主家親の死は楯岡光直、山野辺義忠、鮭延越前らによる毒殺であると訴えた。
酒井雅楽頭は訴えに基づき楯岡光直らを江戸に呼び出し審理を行ったが、松根備中守の訴えには、はっきりした証拠がなく、返って誣告罪で筑前柳川藩主立花宗茂に預けられた。
審理終了後、幕府は島田弾正、米津勘兵衛を山形に下向させて、「最上領は要害ゆえ、領地は暫く収公し、義俊には新たに6万石を与える。家老たちも心を一にして義俊を補佐し、国政を私せず沙汰したならば、義俊成長ののち本領を返し給わる」と告げた。

これに対して山野辺義忠、鮭延越前は「松根のような逆臣を厳刑に処さずそのままにしておくようでは、再び讒言人が出るやも知れない。義俊本領が収公されるならば、われら暇を給わり出家して高野山に入りたい」と返答した。
幕府はもはや収拾策はないと判断し、元和8年8月18日最上家の改易を決定した。最上領は本多正純・永井直勝が上使となり伊達政宗や上杉景勝らによって接収された。

鳥居氏の時代

最上氏に代わって山形に入部したのは鳥居氏で当主は忠政であった。鳥居氏は忠政の父元忠が関ヶ原の際に家康から伏見城を預かり、石田三成ら西軍の猛攻をよく支え戦死した。
家康は戦後、嫡子忠政に6万石を加増し旧領と合わせて10万石とし岩城平藩主とした。平に約20年在封した後、最上氏改易の後を受けて、東北の押さえとしての役割を与えられ12万石を加増されて山形に移ってきた。

入部直後の元和9年(1624年)3月から翌10年4月にかけて、忠政は領内の検地を実施した。この元和検地は苛酷で厳しいものであったといい、検地の結果は高率を掛けられ農民の負担は最上氏時代より大きく増えたという。
たしかに検地自体も厳しい面はあったのだろうが、それよりも最上氏時代の検地がはなはだ不正確であったことによる是正が負担増に繋がった面も大きいといわれている。
このほか寺社領を圧迫したことでも忠政は評判がよくない。とくに山寺立石寺の山林に対し寺領とは認めず、藩領として大木を伐採、城内の普請に使った。

一方では馬見ヶ崎川の流路を変えて洪水を防止し、笹谷街道を城下の南に移して宿駅を整え、また七日町と十日町に紅花市を開設したのも忠政であるとると伝えられている。
その忠政は寛永5年(1628年)死去したが、これは対立していた立石寺の僧が呪詛祈祷したものとの噂がたった。
忠政の跡を継いだのは忠恒である。しかし忠恒は病弱であり公役を努めえず、藩主在任8年目の寛永13年(1636年)7月7日に33歳で病没した。

忠恒は嗣子を定めなかったために領地は収公となった。たしかに忠恒に子はなかったが異母弟忠春があった。
しかし忠恒は、忠春の母とは不仲であったために忠春の相続を願わず、そのために嗣子を定めなかったとう。
これは公儀をないがしろにするものとされ領地は収公されたのだが、祖父元忠の功績大なるをもって、異母弟忠春に信濃高遠3万石をもって鳥居の嗣を継がせた。

頻繁な藩主交代

鳥居氏に変わり、将軍家光の末弟保科正之が20万石で山形に入った。正之は保科正光に養育されて、その養子となり高遠藩主となっていたが、山形転封に伴い保科家の正統を正光実子の正貞に譲り、新たに徳川一門として別家を立てることになった。
これは家光の意向でもあり、正之は以後家光の名補佐役になる。
正之の代に隣接の白岩領で一揆があり、白岩領の代官から相談を受けた正之は一揆を鎮圧し首謀者をことごとく磔刑に処したという。
正之は寛永20年(1643年)に在封7年で会津23万石に転封となった。

保科正之転封の後、山形に入ったのは松平(越前)直基であった。禄高は15万石であったが在封わずか4年の慶安元年(1648年)に播磨姫路に転封。
入れ替わりに姫路から松平(奥平)忠弘が15万石で入る。松平(奥平)氏は、奥平信昌が家康の娘亀姫を娶り、松平姓を許された家である。在封は20年で、寛文8年(1668年)に下野宇都宮に移り、入れ替わりに宇都宮から9万石で奥平昌能が移ってきた。

このころには江戸幕府も安定し、また会津に家門の保科松平家が入ったために、奥羽の押さえとしての山形藩の意義も薄れてきた。
そのためか左遷されてくる大名が多く、幕末まで10万石を越える藩主はない。
奥平家も左遷であった。昌能の父忠昌が、この2月に死去したときに幕府の禁を破って殉死者を出し、また忠昌の葬儀の際に重臣が口論のうえ刃傷沙汰になるという家中不取締を理由に2万石の減封のうえ転封されたのである。

昌能は寛文12年(1672年)に死去し、養子の昌章が継いだ。貞享2年(1685年)に1万石加増のうえ旧領宇都宮に転封となる。奥平氏の山形在藩は17年間であった。
次は堀田正仲が下総古河から10万石で入ったが、1年1ヶ月で同じ10万石で陸奥福島に移る。正仲は将軍綱吉擁立に大功あった大老堀田正俊の子であったが、正俊が老中稲葉正休に江戸城中で殺害され、それにより堀田家は幕府中枢から失脚したのである。

松平・堀田氏

堀田氏の後には豊後日田から松平(越前)直矩が3万石を加増され10万石で入った。この直矩は40年ほど前に山形藩主から姫路に移った松平直基の長男である。
直基は姫路に15万石で移ったが、宗家の越前家での騒動(越後騒動)に関連して閉門処分をうけ、7万石に減知されたうえ豊後日田に移されたのであるが、このたび3万石を加増されて旧領山形に戻った。
元禄5年(1692年)に在藩6年で15万石に復して陸奥白河に転封となる。

入れ替わりに陸奥白河から松平(奥平)忠弘が、5万石を減らされ10万石で入る。忠弘は寛文8年(1668年)まで山形に在封していたので、二度目の山形藩主である。
忠弘は寛文8年に宇都宮に移り、さらに白河に移ったが家督相続問題で家臣間の争いが起こり、その責を負わされて山形に左遷されたものだった。
忠弘は入部直後に隠居し嫡子忠雅に家督を譲った。忠雅は元禄13年(1700年)に在藩8年で備後福山10万石に転封となる。

変わって山形に入ったのは、これも二度目の入部となる堀田氏で、陸奥白河から10万石で堀田正虎が転封されてきた。
正虎は先に福島に移った正仲の弟で、元禄7年(1694年)に福島で正仲が死去し、家督を相続していた。
堀田氏は延享3年(1746年)まで46年間在封する。この間新田開拓などを行ったが、領地の交換等も頻繁にあったようだ。
また、正虎の代に隣接地の長瀞に一揆が起きて、幕命により8百名余りに藩兵を派遣、鎮圧した。

堀田氏は正虎、正春、正亮と継承し、正亮は寛保元年(1741年)奏者番、翌寛保2年寺社奉行兼帯、延享元年(1744年)大坂城代、翌延享2年老中となり延享3年に下総佐倉に転封された。
堀田氏は佐倉に転封したが出羽村山郡内に4万3千石余りが封地として残り、堀田氏は柏倉に陣屋を置いて支配した。
堀田氏と入れ替わって佐倉から松平(大給)乗佑が転封されてくる。老中だった父乗邑が勘気を受けて失脚、逼塞の処分を受けたことによる左遷であった。石高は6万石、在封18年で三河西尾に移った。

松平氏の時代の宝暦5年は大凶作であり、この年城下で打毀しが起きる。これらもあって松平氏の治世は評判が悪かった。
見てきたように正保以後山形は領主が頻繁に交代し、やってくる領主も左遷された大名が多く、藩領の石高も一定せず城も荒廃していたようだ。
松平氏の西尾転封の後3年間山形は天領となる。会津の松平保科家に預けられ、城番は武川助右衛門、代官は前沢藤十郎であった。

秋元氏の時代

天領時代に山形の代官であった松平保科家の家臣前沢藤十郎は、城内の二の丸、三の丸などの武家屋敷を全て壊し、薪として売り払った。さらにその跡地を農地にしたので、かつての奥羽の重要地も城下の真ん中に畑ができるまでに落ちぶれた。
明和4年(1767年)に秋元涼朝が、6万石で武蔵川越から入部する。涼朝は明和元年まで老中を務め病気により辞任、その後西の丸老中となったが明和4年の辞職し、その直後の転封であった。

涼朝は山形転封の際に広大な曲輪を縮小し、荒廃した城内を整理するように命じられたというが、あまりにも荒れ果てた様子を聞き山形には一度も入らずに隠居したという。
秋元氏は涼朝のあと、永朝、久朝、志朝と継承して在封78年、弘化2年(1845年)志朝が上野館林に転封するが、村山郡内に4万6千石余りの封地を残した。秋元氏は転封後も6万石だから出羽の領地の方が多かったことになる。この管理のために、漆山に陣屋を設けて支配した。

秋元氏の代では永朝が安永3年(1774年)奏者番となったが職務上の過失で失脚、天明4年に城下で打毀しが起きた。志朝の代に武蔵国内の地と出羽の地を交換された。
秋元氏の在封期間78年は歴代の山形藩主のなかでは最も長かったが、その封地は川越に5千石、河内国内に2万石、山形に3万5千石と三分されていた。
このため初期の山形藩領は各藩の飛び地や天領などが複雑に入り組んだ状態になり、また天領も例えば天保期には寒河江、尾花沢、漆山、柴崎の四代官所で管理されるなど、農民の統一支配は望めず、そのために他地域に比べて統制の枠を超えた経済が早くから発展した。

最後の藩主水野氏

弘化2年(1845年)に秋元氏に代わって山形に入ったのは水野忠精であった。先代の忠邦は肥前唐津から遠江浜松に移ったが、これは老中になりたい一心からであった。
唐津は表高6万石であるが実高は20万石といわれるほど豊かなところで、家臣一同忠邦の国替には反対であった。
しかし九州の果てにいたのでは老中にはなれない。そのためにま老中候補者の待機地である浜松への国替を希望したのである。

念願かない浜松に転封となり、大坂城代、京都所司代、西の丸老中と順調に出世し、天保5年(1834年)に待望の老中昇進。
天保12年(1841年)には老中首座となり、有名な天保の改革を主導した。綱紀粛正、冗費節約、士風振興、農村改革、奢侈禁止などが柱であったが、あまりに苛烈な改革に賛同は得られず失敗、老中を解任されたうえ、在職中の不正を理由に隠居謹慎となった。

このこともあって家督を相続した忠精は山形に転封、またも左遷大名である。水野氏はこのころの他藩同様に財政難で苦しみ、入部早々から藩内の富商たちからの借金や献金に依存した。
先に触れたように、この地域は領主交代が激しいうえに領地が錯綜し、そのために地域経済は支配の枠を超えて発展して行った。
特にこの地方の特産品として紅花と青苧(衣料品)である。紅花は村山地方を中心に栽培され、花摘みの季節には山形城下で1ヶ月ほど紅花市が立った。
これらは、城下から最上川を経て西廻り航路で江戸・上方に運ばれていった。これらによって山形城下には富商が生まれていったのである。

忠精は慶応2年(1866年)隠居し、嫡子忠弘が家督を継いだ。忠精は健康がすぐれず、跡を継いだ忠弘も13歳であり、ともに江戸にいたために幕末のこの時期山形で指揮を取ったのは家老水野元宣であった。
慶応4年(1868年)江戸を抑えた官軍は東北鎮定に乗り出す。なかでも会津・庄内藩両藩の討伐が急務で、山形藩にも庄内討伐軍参陣の命が下る。
明治元年奥羽鎮撫使の副総督沢為量を迎え庄内討伐軍の一軍となり庄内藩と交戦するが、この時庄内藩とは密約が出来ており、山形藩と庄内藩の交戦は見せ掛けだったという。

庄内討伐は攻撃側諸藩の意気が上がらず、庄内藩の有利進み、官軍内の内紛もあって失敗に帰した。
奥羽諸藩はその後に白石、さらに仙台で会同し奥羽列藩同盟を結成、山形藩も参加した。攻守入れ替わり、庄内藩と同盟して秋田藩との会戦に望み、戦いは有利に展開する。
しかし大勢はすでに決しており、米沢藩の官軍への降伏を契機に奥羽の各藩は続々と官軍に降った。
山形藩の謝罪使を派遣して官軍に降伏した。

明治元年(1868年)に藩主忠弘は謹慎を申し渡され、官軍に抗戦した首謀者として家老水野元宣が27歳の若い命を刑により散らせたのは翌明治2年5月のことであった。

参考文献:陸奥・出羽 斯波・最上一族(新人物往来社)、最上義光(PHP文庫)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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