歴史の勉強

庄内藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
酒井忠勝 元和8.8〜正保4.10
1622〜1647
14.0 信濃松代より
酒井忠当 正保4.12〜万治3.2
1647〜1660
14.0  
酒井忠義 万治3.4〜天和元.11
1660〜1681
14.0  
酒井忠真 天和2.2〜享保16.8
1682〜1731
14.0  
酒井忠寄 享保16.10〜明和3.3
1731〜1766
14.0  
酒井忠温 明和3.5〜明和4.1
1766〜1767
14.0  
酒井忠徳 明和4.2〜文化2.9
1767〜1805
14.0  
酒井忠器 文化2.9〜天保13.4
1805〜1842
14.0  
酒井忠発 天保13.4〜文久元.8
1842〜1861
14.0  
酒井忠寛 文久元.8〜文久2.9
1861〜1862
14.0  
酒井忠篤 文久2.12〜明治元.12
1862〜1868
14.0  
酒井忠宝 明治元.12〜
1868〜
12.0  

山形県の日本海沿岸地方は朝日連峰に囲まれや庄内平野を中心として、内陸部からは独立した地域を形作っていた。
戦国時代には庄内地方は越後から北上してきた上杉氏と内陸部から最上川に沿って進出してきた最上氏の抗争地となり、戦力で勝る上杉氏の支配下に置かれた。
しかし関ヶ原役で上杉氏が西軍に与して家康に反抗したのに対し、最上氏は早くから家康に接近して東軍に与し、戦後庄内地方は最上氏に与えられた。
しかし最上氏は近世大名に成りきれずに、戦国の遺風を残す家臣の間に対立が絶えず、幼少の当主のもとでは治世不能と判断されて元和8年(1622年)8月18日に改易となった。

最上領は分割され、同年9月に山形には鳥居忠政が20万石で入部したのをはじめ上山には松平重忠が4万石、新庄には戸沢政盛が6万石が入り、内陸部は鳥居氏とその縁戚であった大名に与えられた。
また庄内には酒井忠勝が13万8千石で入部した。忠勝の正室は鳥居忠政の女であり、忠勝もまた鳥居氏の縁戚であった。
酒井氏は徳川四天王の第一であった酒井忠次の孫であり、左衛門尉酒井家と呼ばれ徳川氏とも同祖とされる、譜代の名門であった。
庄内は実高20万石といわれる豊かな藩で、酒井氏が十二代にわたり在封し明治を迎えた。

庄内藩の成立と長門守事件

酒井忠勝が庄内転封の命を受けたとき、山形城の支城のような庄内に相当不満があったらしいが、幕府では「庄内には鶴ヶ岡、亀ヶ崎の二城があるうえ、陸奥と越後の間にある重要な地で、外藩警守の内意である」と宥めたという。
秋田の佐竹氏や米沢の上杉氏など有力外様大名への押さえとしての移封であることは間違いのないところである。

忠勝は入部後に鶴ヶ岡と亀ヶ崎の両城を比べ、そのどちらかに居城を決めなければならなかった。
亀ヶ崎(酒田)は最上川河口に位置する堅固な城であり、良港でもあって舟運には都合が良かった。
一方の鶴ヶ岡(鶴岡)は城の規模も小さく、重要視されていなかった。このために亀ヶ崎が城地として有力であったが、将来の開発及び家臣団を繁華な港町から隔離する意味で鶴ヶ岡を城下と決定した。

忠勝の鶴岡入部の翌元和9年から10年にかけて、さっそく検地が実施された。この検地は徹底したもので、その結果5万3千石もの増石を得たという。
この厳しい検地の結果は農民の疲弊を招き、寛永9年(1632年)10月には遊佐、荒瀬の農民が秋田藩領に多数逃散した。この事件はのちに幕府に直訴されて酒井家改易の危機を招くことになった。
しかし忠勝の世子忠当の正室千万が時の老中で幕閣の実力者であった、松平信綱の女であったために事件は不問に付されている。

その間の寛永7年(1630年)に忠勝の弟で出羽左沢藩主となっていた直次が死去し、無嗣であったために断絶となり、その領地1万2千石は忠勝に預けられた。
一方、寛永9年(1632年)6月に改易となった肥後熊本藩主加藤忠広を預けられて、幕命によって1万石を分与した。
その代わりに先の直次の旧領1万2千石を与えられて、その結果として庄内藩の領は14万石となった。

また忠勝弟の長門守忠重は、将軍家光の小姓を勤め、別家して8千石を知行していたが苛政によって寛永15年(1638年)に改易されて忠勝のもとに寄寓していた。
この忠重は讒言により忠勝に取り入り、次第に藩政にも口出しをするようになった。やがて家老の高力喜兵衛と対立し、忠勝に讒言して高力一族を追放や切腹に処してしまう。
忠重は自身の子の九八郎と忠勝の女お万を結婚させたのち、忠勝の世子忠当の病弱を理由に、九八郎に数万石を分封させる計画であったという。
そのために忠当後ろ盾であった高力喜兵衛(喜兵衛の父但馬に、忠勝の妹が嫁しており、したがって忠当と喜兵衛は従兄弟になる)の失脚を謀ったのであった。

忠勝は農民逃散事件でもわかるように、短慮で我がままな性格であったらしく、讒言巧みな忠重のことを疑いなく信じきっていたらしい。
だが、正保4年(1647年)10月に忠勝が死去すると、松平信綱が藩政に介入して忠重に2万両を与えて義絶し、家督は忠当が全て継いだ。
信綱はこのとき、もし忠勝があと半年存命したなら酒井家は破滅していたと語っている。なお、忠重はその後下総市川に隠棲したが、寛文6年(1666年)に夜盗に襲われて殺されてしまった。
この忠重絡みの事件は庄内藩存亡の危機を招き、長門守事件と称されている。

忠当、忠義、忠真の時代

正保4年(1647年)に忠当が家督を相続した時に、忠勝の遺言によって弟忠恒に新田2万石、同忠解に新田1万石をそれぞれ分与し、松山、大山の両支藩を立藩させた。
忠当の襲封直後は忠重騒動の動揺があったが、幕閣の実力者信綱の後見によって動揺は静まった。慶安元年(1648年)には藩士の統制、農民統制、家政に関する法令を発布して、施政の方針の明確化を図り藩政の基盤強化に努めた。
万治3年(1660年)2月に忠当は44歳で死去するが、忠当の代は藩政の安定化が順当に図られた時期であった。これは舅である松平信綱の強力なバックアップがあったればこそであった。

忠当の跡を継いだのは忠義で、襲封時17歳であったために祖父である老中松平信綱が後見した。
忠義の代には高力忠兵衛が農政の改革を図り、新田開発、増税、廻米制の整備などを柱として藩財政を立て直そうとしたが成果が得られず、逆に農民の強い反発にあって天和元年(1681年)に失脚した。
また、この寛文12年(1672年)に河村瑞賢によって西廻り航路が開かれた。これによって奥羽の天領の米は最上川を下って河口の酒田に集められ、そこから大型船で日本海を南下、瀬戸内海をから大坂を経由、江戸に運ばれた。
庄内藩も幕命により輸送の援助を行ったが、酒田には米商人が殺到して空前の賑わいとなった。

一方で、天和元年(1681年)3月に幕府から将軍家綱の霊廟造営が藩に命じられて、その工費に2万8千両余り費やしたために藩財政は急速に逼迫の度を増した。
この天和元年に忠当は38歳の若さで江戸で没し、その跡を忠真が継いだ。
忠真の代の出来事では、元禄15年(1702年)7月に預けられていた本多政利(播磨明石藩主)の所業が治まらず、忠真は監督不行届きを責められて閉門を命ぜられた。
閉門は12月で許されたが、翌元禄16年4月まで謹慎している。本多政利は改めて水野忠之に預けられてたが、この一件で庄内藩士では家老2名が暇を出されるなど、藩士十数名が処分された。

宝永5年(1708年)に富士山の噴火によって大きな被害が出た東海道藤枝宿の普請役、正徳元年(1711年)には朝鮮通信使への上使を務める。享保10年(1725年)には将軍吉宗の世子家重元服上使として上洛するなど出費の大きい加役が多く、藩財政の逼迫に拍車をかけた。
藩財政の悪化にも関わらず、好きな浄瑠璃を自ら語り聞かせるなど遊芸にも凝った。また美少年を好み、気に入った小姓やその兄弟に加増するなど偏向が目立ったとされる。
その忠真は享保16年(1731年)8月に江戸藩邸において61歳で没した。

財政の困窮と本間家への依存

忠真の世子であった忠辰は早世していたために、支藩の出羽松山藩主忠予の次男であった忠寄が、忠真の死去によって第五代の藩主となった。
忠寄の代には元文4年(1739年)に日光東照宮修理の課役に4万8千両を費やしたのをはじめ、寛保元年(1741年)8月には将軍世子家治の元服の使として上洛するなど出費が嵩んだ。
さらに忠寄の正室は加賀前田家の養女であった蝶姫で、このために自然生活が華美になり、交際費も嵩んで藩財政を一層圧迫した。

すでに財政難に陥っていた庄内藩では日光東照宮修理の費用が捻出できず、酒田の富商本間光丘の寄金によって賄わざるを得なかった。
本間家は酒田で米穀、紅花、木綿、薬種などを扱い土地を集積して地主として頭角を現し、忠寄のころには藩に献金を繰り返した結果、本間家の財力が藩の財政を左右するほどになった。
藩でも寛保元年(1741年)には財政困窮により、「賄」と称して全ての藩士の禄と扶持を取り上げて、1人につき1日あたり米6合と禄100石について750文の雑用金を支給する制度を取るほどであったが、忠寄は敢えてこうしたことから目を背け猿楽などに興じていたらしい。

そのようななかで忠寄は、寛延2年(1749年)9月に老中に就任し明和元年5月まで勤めた。酒井氏嫡流である左衛門尉系酒井氏では始めての幕閣入りであったが、交際費が予想外にかかり、これも財政の困窮度を増すことに繋がって、さらに本間家への依存度を高めていった。
再三の献金などの功で本間光丘は明和元年(1764年)には30人扶持、御手廻格御小姓頭支配に任ぜられ、翌年には御小姓頭となった。

一方で宝暦4年(1754年)から5年にかけての凶作では年貢の未進分は8千表を越え、宝暦12年には大凶作に見舞われた。このときは一揆も発生し、藩では幕府から1万両を借りて領民の救済に宛てた。
忠寄は積極的に財政難に対処しようとしないばかりか敢えて目を背け、ただ本間家に頼っただけであった。その忠寄は明和3年(1766年)3月に死去し、跡を34歳の長男忠温が継いだが、忠温は健康がすぐれず、家督相続後1年にも満たない明和4年(1767年)正月16日に死去してしった。

七代忠徳の財政再建

短命であった忠温の跡を嫡男の忠徳が13歳で継いだ。忠徳はのちに名君といわれるようになる酒井家中興の藩主である。
初めて帰国の途についた安永元年(1772年)のこと、藩財政の窮乏甚だしくて旅費の全額を江戸で調達できず、半額を持って出発して残りは庄内から送らせることとした。
しかし帰国の列が福島に至っても旅費が到着せず、このことを聞いた忠徳は落涙慨嘆したという。このときは遅れながらも旅費が到着して帰国できたが、この当時の負債は8万〜9万両といわれ、借金の利子だけでも年1万5千両に達した。

財政難打開のために苦心はしたが根本的な解決策は示せず、結局は本間光丘を頼ることとなった。光丘には全権が与えられて、忠徳にも随時謁見が許された。
光丘が建てた財政立直しの方策が安永御地盤組立であり、その後天明元年(1781年)には天明御地盤組立が立案された。光丘は御勝手御用掛となり、財政再建を推し進めた。
財政再建の骨子は緊縮均衡予算を厳しく実行することで、予算制の導入による支出の抑制、負債の年賦償還が柱であった。
また家臣に対しては低利資金の融通による高利負債の整理、農民に対しては低利融資、諸費用の農民負担の全廃、光丘の拠出による備荒基金の設立などが行われ、忠徳の倹約と相俟って好成績を収め、天明元年には1500両近くの余剰金まで生み出した。

財政改革によって天明3年(1783年)の凶作の際には備荒籾を放出したので餓死者は一人も出なかったという。しかし天明5年、同6年と凶作が続き、天明8年(1788年)には幕命によって東海道の川普請が課役された。
このために安定化した財政は再び急速に悪化し、農民も過去に低利で受けた借金が返済できなくなった。一方で光丘は安永から天明にかけて新たに田畑を集積したために、藩士竹内八郎右衛門や白井矢太夫ら光丘に反発する人間による寛政改革が実施された。

寛政改革は農民や貧困武士を中心にすえ、光丘らの富商や地主層は犠牲となっても構わないという発想で進められた。
藩校致道館を建てて士道の高揚を図り、徳政と称して藩からの貸付米の返済免除、諸掛の軽減を断行し、他方で商人の持つ田畑への課税強化を行った。
この改革は一時的には成功を見たものの、文化6年(1809年)に竹内、白井両名が幕府の許可を得ずに参勤の経路を変更したとして失脚し、藩政は再び光丘らの手に移ることとなる。すでに忠徳は文化2年(1805年)に隠居しており、次の忠器の代のことであった。

三方所替え事件

文化6年(1809年)に寛政改革を推進してきた竹内、白井両名が失脚すると、藩政は水野重栄ら反改革派の手に移ることとなる。
これより前の文化4年(1807年)6月には、幕命によってロシア船警戒のために蝦夷地に藩兵300名を派遣し警備にあたり、さらに庄内沿岸の警備も命じられた。
このために藩財政は再び苦しくなり、反改革派に実権が移ると本間家との関係も再び復活した。
本間家四代光道は藩に援助を行い、天保飢饉の際には救米を実施したほか、他領から米を買い入れて領民を救済した。

さて忠器の代で忘れてはならないのは、三方所替え事件である。天保11年(1840年)に幕府は忠器を越後長岡へ、越後長岡の牧野忠雅を武蔵川越へ、武蔵川越の松平斉典を出羽庄内へそれぞれ転封することとした。これを三方所替えと称する。
この領地替は財政難に苦しむ川越藩主松平斉典が豊かな庄内への転封を願って画策したものされ、斉典はそのために将軍家斉の子を養子として迎え入れて、将軍家や幕閣と密接な関係を築いていった。
転封の命に酒井家では準備を実施する一方で、忠器の嫡子忠発を中心にして江戸で裏面工作を開始したが、基本的には幕命であり撤回される道理はなかった。

また酒田の本間家の当主光暉は新領主松平氏の誅求を恐れて財産保全策を図る一方で、百姓一揆を起こさせる奇策に出た。
藩の重役も光暉とともに動き、また富農も松平氏による苛政を恐れて協力的であった。秘密裏に組織された百姓代表一行は江戸に上り老中へ駕籠訴した。
このころ幕府内でも大御所となった家斉による閨閥政治に対して批判が高まり、また大広間詰めの外様大名や国主大名も酒井氏に対して同情的であった。
これらもあって駕籠訴に対しても寛大な扱いがされ百姓の行いに感心する者まであった。庄内の百姓の転封阻止運動はこれらに力を得て盛り上がり、ついに天保12年(1841年)7月12日に転封命令は撤回された。

多分に官製とも思われるが、転封阻止、藩主永城という名目での百姓一揆は類例を見ないものであり、これは酒井家の善政の結果といわれている。
たしかに本間家の援助などがあって庄内藩は近隣諸藩に比べれば豊かで、天明の飢饉でも餓死者を一人も出さなかった。
現代の感覚では善政とまで言えるかどうかはわからないが、確かに他藩と比較して庄内藩が暮らしよかったのは間違いないのであろう。
そしてもう一つ、酒井家より格段に財政状態が悪い松平家が藩主になれば、確実に酒井時代よりも生活が苦しくなる。むしろ転封反対の理由としては、この方が強かったかもしれない。

いずれにせよ三方所地替えの中止は、百姓による転封阻止一揆が最も効果的であったのは事実である。
ほかにも大御所家斉の死去による幕府方針の転換、外様有力大名の反対などがその要因となった。
庄内藩内は喜びに沸きかえったが、他方幕府の権威は大きく揺らぎ、急坂を転げ落ちるようにして幕末へ向かっていく。
忠器は転封が中止された翌年の天保13年(1842年)4月に隠居し、嫡子忠発が十一代藩主となった。

印旛沼工事と大山騒動

忠発の代になると三方所替え事件によって面目を潰された老中水野忠邦は、下総国印旛沼の疎水工事を庄内藩に命じてきた。
銚子から浅草まで水路を開き、水害防止と新田開発を行うというもので、庄内藩のほか福岡藩など五藩が命じられた。
なかでも庄内藩の担当区域は難所であり、藩では鶴岡城下に2800両、酒田に3700両、本間家に1万両の拠出を割当て、5000人とも言われる人員を動員した。

しかし工事は当初から技術的に不安視されており、さらに工事を担当した勘定方に不正があって各藩とも糾弾の声を挙げた。
このために工事は幕府直轄に変更されたが、最終的には中止され天保14年(1843年)7月に水野忠邦は失脚した。
三方所地替え事件で水野に睨まれた庄内藩は胸をなでおろしたが、印旛沼工事で50万両もの無駄な出費をさせられた。

弘化元年(1844年)に今度は大山騒動が起る。大山騒動とは、天領であった大山が酒井家の預り地となることに反対する農民が起こした一揆である。
もともと大山の地は、初代忠勝の子の忠解が1万石を分与されて大山藩を立藩したところだが、忠解に子がなく無嗣断絶となり、その領地は収公され天領となっていた。
酒造地として発展したが、幕府では印旛沼の一件もあって大山を酒井家の預り地とすることにした。
だが大山の住人は猛反対し、ついに一揆を起こした。一般に天領支配の方が徴税は緩やかであり、これが藩政支配になると税の取立てが厳しくかつ細部に渡る。

また、天領の住人は農民に至るまでプライドが高い。幕府の直接支配地の住人ということに誇りを持っていた。
大山の住人たちは引続き天領を望み、代表は江戸に上って勘定奉行や老中や駕籠訴したが、酒井家でも手を打っていて、結局は農民側の敗北に終わり、獄門、遠島、追放など処分者は3千人以上にのぼり、大山では滅亡した家も多かったという。
また、忠発の代はいよいよ幕末に向けて軍事力が強化されだした時でもあって、嘉永2年(1849年)に洋式砲術による訓練を開始し、嘉永6年(1853年)には庄内海岸の警備をはじめ幕命による品川台場警備、安政6年(1859年)9月には蝦夷地警備など幕命による派兵が相次いだ。

幕末の庄内

十一代藩主忠発は文久元年(1861年)8月に隠居し、先々代忠器の六男忠寛が忠発の養子となって十二代藩主となるが、翌文久2年9月に流行の麻疹に罹り24歳で病没した。
その跡を忠発の五男忠篤がわずか10歳で継ぎ十三代藩主となる。庄内藩では忠発の代に佐幕派と勤皇派の対立に、重臣の勢力争いが絡み、藩主廃立の陰謀まであった。
公武合体派の江戸留守居役大山庄太夫らが忠発を廃そうと画策したが失敗し、これによって庄太夫は自害し、公武合体派の首脳部も切腹させられる。
これによって佐幕派が実権を握り、庄内藩は佐幕一辺倒で幕末の混乱期に突入する。

勤皇の志士清河八郎は幕府の資金を得て浪士隊を組織して京にのぼり将軍守護にあたることになった。
清河は京で浪士隊の目的を尊皇攘夷と明らかにし、これに反対する近藤勇らは浪士隊を去り新撰組を組織する。
残る浪士隊は清河が指揮して江戸に戻り、新微組となるが、文久3年(1863年)4月に清河は暗殺され、新微組は庄内藩に預けられ江戸市中見回りを命じられる。藩では松平権十郎をその御用掛として江戸市中取締にあたった。

慶応3年(1867年)には新微組を加えた庄内藩は、松山、上山、前橋各藩の藩兵とともに江戸の薩摩屋敷を焼き討ちする。
江戸市中で反乱を起こす徒党を追うと薩摩屋敷に逃げ込むために、本拠である薩摩屋敷を攻撃したものであったが、これは完全に薩摩藩の挑発に乗せられたものであった。このことが戊辰戦争での薩長連合よる庄内藩攻撃の伏線になる。
江戸開城後に新微組は解散したが、庄内に向う希望者も多くあったという。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では庄内藩は奥羽列藩同盟に加わって、新政府軍と抗戦状態となった。しかし同盟諸藩が次々と降伏し孤立状態となり、ついに同年(明治元年)9月25日に新政府軍に降伏して謝罪した。

これにより忠篤は所領没収のうえ謹慎を命じられたが、数日後には弟忠宝に庄内12万石が与えられて家名は存続した。
明治2年(1869年)2月に会津若松への転封が命じられたが、藩重役は岩倉具視、三条実美らに転封阻止運動を行い、また農民による反対運動も組織された。
結局会津への転封は免れ、磐城平へ転封へと改められた。忠宝は70万両を新政府に献金することで庄内復帰に成功した。
同年7月の版籍奉還により庄内藩知事となり、9月に大泉藩と改称する。12月に先に約した献金のうち30万両を納め、残り40万両は免除された。

戊辰戦争の際に、最後まで新政府軍に抵抗した庄内藩の処分が比較的穏やかだったのは、西郷隆盛の指示によるものであった。
薩摩藩も庄内藩も中央集権化に対抗して地方割拠の精神があることが共通しており、これが西郷と庄内藩を急速に近づけたとする説がある。
三方所替えといい大山騒動といい庄内藩には中央の権力に抵抗する気風があった。もちろん、その裏には本間家という大富商がいて、財政面のバックアップがあったためにできたことではあるが、そのあたり宿敵同士ではあったが薩摩藩と共通するところがあるというのである。
今となっては真偽はわからないが、酒井家をはじめ庄内藩士が西郷を篤く崇拝したのは事実であった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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