歴史の勉強

松山藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
酒井忠恒 正保4.12〜延宝3.8
1647〜1675
2.0  
酒井忠予 延宝3.10〜享保17.11
1675〜1732
2.0  
酒井忠休 享保17.11〜天明7.4
1732〜1787
2.5  
酒井忠崇 天明7.6〜寛政10.11
1787〜1798
2.5  
酒井忠礼 寛政10.11〜文政4.7
1798〜1821
2.5  
酒井忠方 文政4.9〜弘化2.11
1821〜1845
2.5  
酒井忠良 弘化2.11〜明治元.12
1845〜1868
2.5  
酒井忠匡 明治元.12〜
1868〜
2.5  

出羽庄内藩主酒井忠勝の七男忠解は、忠勝の遺言によって出羽国村山、飽海、田川の3郡内で新田2万石を分与され、飽海郡中山に陣屋を構えて中山藩を立藩、寛文4年(1664年)に地名を松山と改称した。
三代忠休は若年寄となり、安永8年(1779年)12月に上野国山田、勢多両郡のうちで5千石の加増を受け松山藩は2万5千石となった。
小藩であったために早くから財政難に悩み、二代忠予の代の天和2年(1682年)から藩士の俸禄借上げを実施したが、次の忠休の代の宝暦2年(1752年)に俸禄借上げを巡って騒動が発生し、同年6月に幕府から3千両を借りて財政窮乏を補った。

五代忠礼のころには財政破綻状態となり、六代忠方はそれへの対処とし天保3年(1832年)に御勝手地盤倹約掛を任命したほか、藩財政の建て直しに尽力したが、一方で天保の凶作や洪水、課役などが相次いで財政再建は果たせなかった。
戊辰戦争では本藩の庄内藩とともに奥羽列藩同盟に加盟して新政府軍に抵抗の姿勢を示したが敗北し、七代忠良は隠居させられ次の忠匡のときに廃藩置県となった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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