歴史の勉強

本荘藩

藩主 在任 石高(万石)
六郷政乗 元和9〜寛永11.4
1623〜1634
2.0
六郷政勝 寛永11.6〜延宝4.6
1634〜1676
2.0
六郷政信 延宝4.6〜貞享2.7
1676〜1685
2.0
六郷政晴 貞享2.9〜享保20.閏3
1685〜1735
2.0
六郷政長 享保20.閏3〜宝暦4.8
1735〜1754
2.0
六郷政林 宝暦4.12〜天明3.12
1754〜1783
2.0
六郷政速 天明3.12〜文化9.10
1783〜1812
2.0
六郷政純 文化9.12〜文政5.8
1812〜1822
2.0
六郷政恒 文政5.12〜弘化4.2
1822〜1847
2.0
六郷政殷 弘化4.2〜文久元.3
1847〜1861
2.0
六郷政鑑 文久元.6〜
1861〜
2.0→3.0

豊臣時代に出羽山形で24万石を領していた最上義光は、早くから徳川家康に接近し、秀吉の死後は徳川譜代とも思えるほどの家康党であった。
関ヶ原役でも東軍に与して会津の上杉氏と交戦し、その功によって出羽庄内と由利33万石の加増を受け57万石の太守となった。由利には一族の楯岡満茂を入れ、満茂は本荘に拠って由利郡一帯を支配した。
最上氏は義光の死後、家親、義俊と継いで、義俊の時に家臣間の抗争から家中不取締の咎めを受けて改易となる。

最上氏改易の後、常陸府中から六郷政乗が2万石で入る。六郷氏は出羽仙北郡六郷の領主であったが、関ヶ原役の功で加増のうえ常陸府中1万石に移封された。大坂の陣の功によって1万石をさらに加増され、2万石となり出羽本荘藩主となったものである。
政乗の死後二代政勝の時に藩政の基礎が固められる。政勝は、出羽矢島の生駒氏との間で金浦、象潟地区と東由利の領地4千6百石余りを交換した。
浅草寺裏にあった本荘藩の江戸屋敷のあたりを象潟町と呼ぶのは、本荘藩領に名勝象潟の地があったからだが、象潟が領地となったのは、この生駒氏との領地交換によってである。

六郷氏は11代に渡り本荘藩主として領内支配を行い、明治維新を迎えたが、小藩ゆえ財政基盤が脆弱であり、六代政速の時に万沢騒動といわれる大規模な一揆が起き、七代政純の時に江戸家老を中心に藩政改革が行なわれたが失敗、幕末まで財政に苦しんだ。
戊辰戦争の際は、十一代藩主政鑑は最初奥羽列藩同盟に加入し薩長軍に敵対したが、のちに久保田藩、亀田藩とともに新政府軍側に立ち、そのために庄内藩の攻撃を受けた。
庄内藩の攻撃に対しては衆寡敵せず、そのうえ武器も旧式であったために、城下に火を放ち撤退した。秋田領内を転戦したあと薩長軍の援軍を得て城下を回復、それらの功をもって1万石の加増を受けた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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