歴史の勉強

福岡藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
黒田長政 慶長5.10~元和9.8
1600~1623
50.2 豊前中津より
黒田忠之 元和9.10~承応3.2
1623~1654
43.3  
黒田光之 承応3.4~元禄元.12
1654~1688
43.3  
黒田綱政 元禄元.12~正徳元.6
1688~1711
47.3  
黒田宣政 正徳元.8~享保4.11
1711~1719
47.3  
黒田継高 享保4.11~明和6.12
1719~1769
47.3  
黒田治之 明和6.12~天明元.8
1769~1781
47.3  
黒田治高 天明2.2~天明2.8
1782~1782
47.3  
黒田斉隆 天明2.12~寛政7.6
1782~1795
47.3  
黒田斉清 寛政7.10~天保5.11
1795~1834
47.3  
黒田長溥 天保5.11~明治2.2
1834~1869
47.3  
黒田長知 明治2.2~
1869~
47.3  

福岡藩のあらまし

名軍師として名高い黒田官兵衛孝高(如水)は、天正5年(1577年)ころから豊臣秀吉の側にあってそのブレーンとなり、竹中半兵衛ともに「両兵衛」「ニ兵衛」と呼ばれ信任が厚く、秀吉の天下取りに大きな貢献をした。
しかし秀吉に猜疑心を抱かれたために処遇には恵まれず、ようやく豊前中津で12万石(一説には18万石)を得たのは天正15年(1587年)に秀吉の九州征伐が終わってからであった。
孝高は中津での国人対策を行い、反抗的な国人であった城井鎮房を討伐したあと、嫡子長政に家督を譲って剃髪し、以後は如水と号した。
このとき如水は44歳で隠居には早すぎるが、これは猜疑心の強い秀吉の眼を怖れたためといわれ、この後も如水は秀吉の近くにあって諮問に預かりブレーンとして活動する。

やがて秀吉が没すると如水と長政父子は迷わず家康に与し、関ヶ原でも東軍に属した。
特に長政は関ヶ原では戦場での活躍のほかに、家康勝利の大きな要因になった小早川秀秋の裏切りと吉川広家の内通に深く関与し、戦後家康から深い感謝を受けた。
この功により長政は豊前中津から筑前一国50万石を与えられた。それまでの筑前は小早川秀秋の領国であり、秀秋は関ヶ原の裏切りによって備前岡山に転封され、その後に長政が入国したのである。

秀秋時代の城は名島にあり長政も当初名島城に入ったが、この城は要害ではあったものの城下は狭く発展性はなかったために、如水とも相談して新たに那珂郡警固村福崎の地に新城を築くこととした。
那珂川を挟んでかつて対外貿易で殷賑を極めた商人町博多の対岸にあたり、黒田氏発祥の地である備前国福岡村にちなんで城下町は福岡と命名された。これが福岡藩の始まりである。
したがって福岡藩初代は黒田長政ということになり、黒田氏は明治維新まで十二代に渡ってこの地を治めた。

石高は長政入国後の検地によって50万2千4百石、元和9年(1623年)二代忠之が相続した時に、弟長興に秋月5万石、同高政の東蓮寺4万石を分与し43万3千百石(新田高2万石程度を加えたものという)、その後東蓮寺藩主であった綱政が本藩四代を継いだために東蓮寺藩4万石は本藩に戻されて47万3千4百石となってこの石高が明治まで保たれた。
福岡藩は二代忠之の時に江戸時代の三代御家騒動にも数えられる黒田騒動が起き、四代綱政のときにも第二の黒田騒動といわれる家督を巡るゴタゴタが起きた。
綱政は急死したが昭和に入って綱政の墳墓改葬の際に調査したところ綱政には大量の砒素が盛られていたことがわかり、家督を巡るゴタゴタで毒殺されたらしい。

この頃には既に福岡藩の財政は悪化していたが、六代継高は名君といわれて財政難を乗り切った。
しかし、その後は比較的短命な藩主や幼くして家督を継いだ藩主が多く、財政は急速に悪化して破綻状態になった。
天保年間には財政改革も行われたが失敗し、やがて幕末を迎えた。幕末期の藩主は十一代長溥で開明派ではあったものの姿勢は終始佐幕であった。
明治2年(1869年)に戊辰戦争の結果を見届けた長溥は、養嗣子長知に家督を譲り、この長知が最後の藩主となる。
しかし福岡藩は明治4年(1871年)に太政官札贋造事件を起こして、版籍奉還により藩知事となっていた長知は罷免される。新知事には有栖川宮熾仁親王が任命されて、黒田氏の筑前支配は廃藩置県を待たずに終った。

藩政の整備

筑前に入国した長政が最初に行ったのは、新城福岡城の築城であった。城は東は那珂川、西は金屑川を境にし、天守閣は造らずに平城とした。
天守閣を置かなかったのは幕府からの無用な嫌疑を受けないためとも、実戦的な城を目指したためとも言われるが、重厚堅固な城であったことは確かで鶴舞城とも呼ばれた。
福岡築城と並行して豊前との国境線防衛の為に、大隈、鷹取、左右良、黒崎、若松、小石原の六支城を築き、それぞれ後藤又兵衛、母里太兵衛、栗山備後、井上九郎右衛門、三宅三太夫、黒田六郎右衛門の重臣を配した。
ただし、この支城は元和元年(1615年)の一国一城令によって破却される。

城下町の整備は築城とともに進められ、城内には重臣の邸を設け、城を囲むように家臣の邸が置かれた。
城下には東西を結ぶ六筋の幹線道路が通され、職人町、魚町、鍛冶町、紺屋町などの商業機能も設けられた。
商人町である博多との間は、那珂川の砂州に石垣を築いて、上下2本の橋が架けられて結ばれた。
また博多に古くから根付く商人に対抗するために、大賀一族に目をかけて間接的に商人を統べた。やがて大賀一族は博多を代表する商人となっていく。

城下の整備とともに検地が行われた。検地は慶長7年(1602年)に領内西部の怡土、志摩両郡から開始され、慶長13年(1608年)にかけて行われた。
この検地によって福岡藩の石高は50万2千416石3升1合3勺となったのであるが、これは長政が50万石を得んとして打ち出したとも言われ、検地はかなり厳しいものであり、さらに実際よりも多くを打ち出したために年貢や夫役なども苛酷なものとなったようである。
この間の慶長9年(1604年)には隠居していた如水が京都で死去し、黒田家は名実ともに長政の時代となった。

長政は検地と平行して農村支配体制を整備し、重臣に各郡を分担して受持たせこれを郡頂と呼んだ。ただし郡頂は多分に名目的なもので、実際の行政は郡奉行が行い、その下に代官、下代、取立代官が配置された。
一方、農民の階級制度も導入され、郡ごとに15~30くらいの村々を統括する触口(後の大庄屋)が置かれた。
その下に各村には庄屋が置かれ、さらに組頭、本百姓、水呑百姓と下がり、名子、荒仕子、下人、日雇などの隷属階級まで身分制度は細分化され体制に組み込まれた。
さらに慶長12年(1607年)には国中掟13か条が触れられ、農村支配体制が強化された。

長政は藩政の基礎を固めつつ、対幕府対策ではひたすら徳川氏に忠誠を誓い、それをことあるごとに示していった。
しかし慶長19年(1614年)大坂冬の陣に際しては、警戒心の強い家康から江戸で留守居を命ぜられ、大坂には嫡子の忠之が参戦した。
翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、長政は少数の供回りとともに秀忠の旗本に加わり、形式的とはいえ大坂の陣に参陣した。
元和9年(1623年)7月に家光への将軍宣下の上洛に際して、長政は先行して京に向かったが途中で病を発し、同年8月4日に京都報恩寺において死去した。

黒田騒動

長政の死により嫡子の忠之が家督を継ぎ、福岡藩二代藩主となった。この時に長政の遺言により弟の長興に秋月5万石、同高政に東蓮寺4万石を分与し、福岡藩の石高は43万3千石となった。
忠之は幼少時より我儘な振る舞いが多く、父長政は忠之を廃嫡して長興を嫡子に据えようと考えていたが、重臣栗山大膳の強い反対にあって断念し、忠之を嫡子としたという。
忠之にとっては藩主となれたのは栗山大膳のおかげであるが、この大膳と忠之の間に確執がおき、やがて御家騒動に発展する。世にいう黒田騒動である。

栗山大膳の父善助は早くから如水に仕えて忠誠を尽くして働き、今日の黒田家あるは栗山善助のおかげと言っても決して言い過ぎではないほどであった。
その功績により栗山家は家柄家老となった。家柄家老とは実力や能力はあまりなくとも家柄だけで重職に就ける家であり、こういう家は後代の藩主にとっては時として煙たい存在であった。
後代の藩主とすればそんな家柄家老より、ある程度自分の思い通りになる重臣がほしくなる。また、家柄家老の能力が低い場合もある。こういう事情で新たに取り立てられた家老を仕置家老という。

黒田騒動の発端は藩主忠之が家柄家老の大膳を煙たがり、倉八十太夫なる児小姓を寵愛して仕置家老に取り立てたことから始まる。
その過程で相当ごり押し的なことをやり、それに大膳が反発し、忠之と大膳つまり藩主と筆頭家老の仲が険悪となった。お互いに譲らず、ついには大膳が忠之に謀反の気配ありと訴えでて、幕府の評定が行われる。
忠之謀反というのはまったくの偽りであった。そのころ幕府の諸大名の取り潰し政策の犠牲となって、肥後の加藤忠広(清正の子)がさしたる落度もないのに改易となった。
これに危機感を抱いた大膳は幕府に対し忠之謀反を訴え、黒田家の内紛をわざと表に出して自らを犠牲にして家の安泰を図ろうとしたのだと言われている。

事実に反することだから幕府がいくら調べても忠之に叛意はない。しかし忠之は騒動を惹起したことを問題にされて所領は一旦召し上げとなった。しかし即日従前の所領を宛行われ実質お咎め無し。
大膳は盛岡藩南部家に預けられたが、終生150人扶持を貰うなど寛大な処分であった。
大膳の訴えも策略の一環であったと伝えられている。つまり黒田騒動とは、君臣間の対立が抜き差しならなくなって起きたものであり、真の悪者はいないのである。

ただし栗山大膳という人物は、好学であり努力家であり責任感もあり、儒学や漢学、詩文などの教養も身につけていが、こういう人間にありがちな押し付けがましく傲岸なところがあったらしい。
忠之に対しても、微に入り細に入る諌書を何度も出している。朝は早起きをせよとか、客扱いは丁寧にせよとか、しかも一々諸子百家や経書などの文句を引用して書いた。
相手は主君しかも筑前一国の太守である。しかも武張った性格だから漢学や儒学の素養もない。大膳にすれば忠之のためを思ってしているだけで他意はないのだが、忠之はたまったものではない。これらの積み重ねで、忠之は大膳のことがだんだん疎ましくなってきたようだ。

一方の忠之は凡庸で我儘な忠之は苦労知らずであるといわれるが、一般に膾炙されるほど暗愚ではなかったらしい。
たしかに長政に比べれば格段に落ちることは否めないが、三代目の馬鹿殿ではなく、事実この後の騒動における対処も見事な面もあり、騒動後は問題なく藩主としての勤めを果たしている。
ただ短気であるが故に血気に逸り、さらに我が強くて好き嫌いが激しい人物ではあったらしい。
栗山大膳に対する評価は分かれており、大忠臣というものもあれば、逆臣というものもある。ちなみに福岡藩では江戸期を通じて栗山は逆臣で栗山姓すら許されなかったという。

忠之の不行跡は黒田騒動を機に収ったとされ、寛永15年(1638年)の島原の乱にも幕命を得て参陣し、本丸への一番乗りを果たす。
寛永18年(1641年)には佐賀藩と隔年交代で長崎警備を命じられ、以後これは幕末まで続くが、一方で福岡藩の財政逼迫の大きな要因にもなった。
また忠之は承応元年(1652年)に荒戸山に東照宮を勧請した。忠之は承応3年(1654年)2月12日に福岡において53歳で死去し、跡を光之が継いだ。

光之の時代

光之が襲封したころの福岡藩の財政難はすでに深刻化しており、光之はたびたび倹約令を発しなければならなかった。
福岡藩は比較的高禄の知行を持つ家臣が多く、それゆえに幕府の軍役規定を上回る家臣を保持していた。それは取りも直さず福岡藩の財政の大きな負担となり、財政逼迫の主要因であった。
光之はこれにメスを入れ、まず延宝3年(1675年)に地頭の年貢徴収権を剥奪し、新升三ツ五歩で年貢を藩が直接収した。

給米も三ツ五歩で知行高に合わせて行われたから、地頭には三ツ五歩以上の年貢は給されなくなり、地味の良い土地の三ツ五歩以上の年貢は藩庫に入ることになった。
実高と知行高の差は全て藩の収入となり、地頭にとっては減収、藩にとっては増収となったわけである。
さらに財政関係の役職を設け、反対に軍事系の役職を廃して泰平の世に相応しい職制とし、身分制度の整備もあわせて行った。
このような改革の中で光之は、古参の重臣を罷免して、新参の鎌田昌勝や立花重根を重用して家老に据えた。
また貝原益軒に命じて黒田家譜を編纂させるなどの文治主義傾向が光之の治世の特徴である。
そのほか天和2年(1682年)には上座郡小石原村に伊万里より陶工を招いて窯を開き、皿山奉行を置いて窯業の育成を行う。ここの製品には専売制が引かれるなど殖産にも意を注いだ。

光之には長男綱之がいたが、なぜか綱之を嫌い延宝5年(1677年)2月にはついに綱之を廃嫡してしまう。
綱之に変わって支藩の東蓮寺藩主となっていた四男の長寛を世子としたために、東蓮寺藩は廃藩となってその石高4万石は本藩に還付された。
元禄元年(1688年)12月9日に光之は致仕して綱政(長寛から改名)に家督を譲り、綱之は配所に幽閉されてしまう。綱之はのちに毒殺されてしまうが、これは第二の黒田騒動と呼ばれる陰惨な騒動に発展する。

綱政と宣政

綱政は元禄元年に光之から家督を譲られるが、このときに新田5万石を弟の長清に分与し長清は綱政がいた東蓮寺に入るが、直方藩とした。
綱政は藩主となると光之が登用した鎌田氏や立花氏ら新参の重臣を罷免し、これがために光之とは不仲になった。
また、光之から廃嫡された綱之は福岡城南方の屋形原に幽閉同然の身となった。やがて綱之は毒殺されてしまうが、そのあと正徳元年(1711年)に今度は綱政が急死する。

昭和25年(1950年)に綱政が改葬されたときの調査で、綱政の遺体から大量の砒素が検出されたという。綱政も毒殺であった。
綱之が毒殺されたのは綱政の死の3年前の宝永5年(1708年)のことであり、綱之死後に福岡藩には多くの忌まわしい出来事が見舞ったという。
人々はこれを綱之の祟りとしているが、この騒動は福岡藩がひた隠しに隠したために、ほとんど資料が残っていないという。これら一連の出来事を第二の黒田騒動という。

また綱政の代の元禄16年(1703年)に福岡藩で最初となる藩札が発行されている。しかし米価が急騰して失敗し、わずか4年で流通停止となった。
綱政の跡を宣政が継ぐが、宣政は病弱であり正徳4年(1714年)以降は帰国することもできず、長崎警備は直方藩主長清が代行した。藩政についても長清が度々指示したという。
宣政には子もなかったために支藩直方藩主黒田長清の長男菊千代(継高)を養嗣子とし、享保4年(1719年)11月に隠居して継高に家督を譲った。

名君継高

名君として名高い継高は、支藩の直方藩主黒田長清の長男として江戸藩邸に生まれ、正徳4年(1714年)4月先代宣政の養嗣子となった。
同年に宣政の兄の黒田吉之の女で、宣政の養女となった幸姫と結婚し、12月には従四位筑前守に任じられた。享保4年(1719年)11月に宣政が致仕して継高が家督を継いだ。
享保5年(1720年)2月に実父である直方藩主長清が死去したために、その所領5万石は本藩に還付されるが新田分知であった為に表高には変化はない。

継高の治世は51年にも及ぶ。襲封直後は財政面の悪化は深刻であったが、比較的平穏な時代でもあった。享保14年(1729年)に旱魃と大風が原因で大凶作となり、翌享保15年には疫病の大流行、享保17年(1732年)には虫害で大飢饉となるなど毎年のように災害が襲った。
享保17年の福岡藩の減収は35万石にも達し、国内で10万人以上が餓死したという。継高は幕府に願い出て2万両の救援金と救援米を借り、福岡藩だけではなく同じく飢饉に喘ぐ近隣藩をも援けた。
その後、飢饉に備えて備荒制を設けて稗や甘蔗を蓄え、また新田開発にも力を注ぎ、米どころの朝倉地区から那珂川までの水路を開削して運送を容易ならしめた。

殖産振興にも務めて、蝋燭の原料である櫨や鶏卵、石炭などを藩の特産品として広めた。そのほかにも用心除銀を制定し、運用銀体系の改編、御積帳の作成など享保飢饉以後の体制の建て直しに尽力した。
幕府はこの継高の治世に注目して、宝暦2年(1752年)に左少将昇進、明和5年(1768年)には参勤交代の際に槍二本対挟箱を持つことを許す破格の待遇を与えた。
晩年に至るまで藩政改革に意欲も持ち、明和6年(1769年)12月10日に家督を治之に譲り隠居し、安永4年(1775年)6月17日に福岡城内において73歳で没した。

財政破綻と天保改革

名君といわれた六代継高の跡は治之-治高-斉隆と続くが、比較的短命な藩主が多かった。その間に福岡藩の財政は急速に悪化していった。。
斉隆が寛政7年(1795年)に19歳で死去すると、十代藩主となったのはまだ1歳の斉清であった。そのために藩政は重臣たちに委ねられて重臣合議で進められ、長崎警備は秋月藩主長舒が代行した。
斉清は蘭学への関心が高い学者大名であり、長じても政務はもっぱら重臣層に任せきりであった。斉清はことに本草学に詳しく、越中富山藩主前田利保と並び称された。

このころは我が国周辺に異国船が頻繁に現れ、幕府は国防の充実を痛感していた。そのような中で長崎で起きた英国船の狼藉事件(フェートン号事件)は、長崎警備の弱さを露呈させることになった。
福岡藩は佐賀藩と隔年交代で長崎警備の任にあたっていたが、フェートン号事件のときは佐賀藩が警備の年であった。
しかし、フェートン号事件の失態で急遽福岡藩が警備を交代し、さらに長崎警備の費用も増大した。
これは福岡藩の財政を更に圧迫し、文化5年(1808年)の藩債の未償還残高は3万1千1百余貫というから、福岡藩の全収入の3年分以上にもなった。

そこで天保4年(1833年)に財政改革の意見を広く一般に求めた。その意見書公募で登場したのが白水養禎であった。
養禎は早良郡内野村の眼医者であったが、財政改革案「御救仕組」を立案応募したのである。
養禎の立案した御救仕組とは、積極的なインフレ策であった。大量の銀札を発行して貸付け、返済を米で行わせ、その米を払い下げてその代銀で銀札を回収しようとした。
さらに銀札を流通させるために、藩営で芝居小屋や料理屋、茶屋を作り、さまざまな興行を催した。

領民は浮かれ、その資金は大量に発行された銀札で、それが足りなければいくらでも貸してくれた。
だが銀札発行の裏づけがないから、ある日を境に銀札は大暴落し、結局経済は破綻した。養禎は解任され逼塞となり後に遠島となった。また藩の重役も責を負わされた。
養禎の改革が行われていた天保5年(1834年)11月に斉清は眼病が悪化して隠居し、薩摩藩から養子に入った長溥に家督を譲っていた。
新藩主長溥の門出になるはずであった天保改革は見事に失敗に終わり、福岡藩は養禎主導の改革失敗に引きずられたまま幕末の激動期に入ることとなった。

幕末の福岡藩

長溥は天保5年(1834年)11月6日に斉清の隠居に伴い家督を継いだ。長溥が家督を継いだとき福岡藩は藩政改革の失敗で財政はどん底の状態であった。
その中で長溥は藩主親政を決意した。先代斉清は襲封時1歳の幼児であったこともあり、その治世は40年以上に及ぶが政務はもっぱら重臣層に任せきりであった。
長溥は多端の時代に突入しているうえ、改革失敗後の政治的混乱を乗り切るには親政によるしかないと考えていたようだ。

長溥は重豪や養父である斉清の影響もあって洋学を好む開明思想の持ち主であり、嘉永6年(1853年)のペリー来航の際には開港を唱えたほどであった。
種痘を採用し、コレラ予防薬を製造し、弘化4年(1847年)には中之島に精錬所を設けて硝子、陶器、染料、薬品などを作り、軍事編成も西洋式とした。
だが開明派ではあっても長溥は佐幕派であり、公武合体を支持した。文久3年(1863年)の政変で公武合体派が宮中を掌握すると、倒幕の思想を掲げて京の政局に関わっていた長州藩は京の政界から追放される。

このとき藩主長溥に上京命令が下るが、長溥は中風であったために世子である長知が代って上京し、長州藩の赦免を朝廷、幕府に訴えた。
翌年春の帰国途上に長知は周防国小郡で毛利家世子と会見し、毛利父子の朝廷及び幕府への謝罪を勧告し、あわせて長州と朝廷・幕府間の周旋を約した。
この際には、政変により長州に逃亡した公家7人の免罪と復位も合わせて約された。しかし元治元年(1864年)夏に長州藩は反撃に出て禁門の変が起きる。

長州藩は攻撃に失敗し、京都御所への発砲により朝敵となり、幕府に長州征伐の命が下る。いわゆる第一次長州征伐であるが、長州藩内の分裂もあって禁門の変責任者の切腹や公家5人(7人のうち1人は死去、1人は脱走)の福岡藩移転、山口城破却を条件に長州と朝廷・幕府の講和がなった。
これによって勤皇派が勢力を伸ばすと、長溥は藩内の勤皇派を徹底的に弾圧した。これ以後、福岡藩は佐幕一辺倒となり、結果的にそのまま明治維新を迎えることとなった。
なお、公家5人の遷座は結局混乱の末に実現するが、遷座後もいろいろな思惑が絡んで複雑な動きをとり、慶応2年に至りようやく上京した。この間藩主長溥は世子長知とともに対応に謀殺された。

長溥は明治元年(1868年)に病を得、翌明治2年の戊辰戦争の結果を見届けると長知に家督を譲り致仕した。
長知は家督相続の4ヵ月後の同年6月に版籍奉還し福岡藩知事となるが、明治4年(1872年)7月に太政官札贋造事件により藩知事を罷免されて閉門処分を受ける。
太政官札とは明治政府が全国流通紙幣として発行した札で、福岡藩ではこの贋札を製造し、そのうち2万5千両を使って肥後米を買い付けたのが発覚したのだった。

財政難打開のための藩主導の犯罪であったが、その後の調べで太政官札だけではなく二分金、一朱金、二分銀、天保銭などまで偽物を作り、軍艦に積み込んで北海道でも買い付けに使っていたことが判明した。
贋造は福岡藩だけが行ったわけではなく、明治政府も諸外国からの抗議を受けて贋造を厳しく取り締まる布告を出したが、福岡藩はこれを無視して大量に贋造行使した。
福岡藩は見せしめの標的にされ、長知は罷免されて閉門処分となり、新知事には有栖川宮熾仁親王が任じられ、廃藩置県を待たずに黒田氏の筑前支配は終焉を迎えた。その4ヵ月後には廃藩置県となり福岡藩の歴史は幕を降ろした。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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