歴史の勉強

秋月藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
黒田長興 元和9.10~寛文5.3
1623~1665
5.0  
黒田長重 寛文5.6~宝永7.10
1665~1710
5.0  
黒田長軌 宝永7.12~正徳5.11
1710~1715
5.0  
黒田長貞 正徳5.12~宝暦4.9
1715~1754
5.0  
黒田長邦 宝暦4.11~宝暦12.2
1754~1762
5.0  
黒田長恵 宝暦12.4~安永3.9
1762~1774
5.0  
黒田長堅 安永3.11~天明4.2
1774~1784
5.0  
黒田長舒 天明5.3~文化4.10
1785~1807
5.0  
黒田長韶 文化5.4~文政13.10
1808~1830
5.0  
黒田長元 文政13.10~万延元.8
1830~1860
5.0  
黒田長義 万延元.8~文久2.1
1860~1862
5.0  
黒田長徳 文久2.7~
1862~
5.0  

筑前国秋月の地は秋月種実の領地であり、種実は戦国末期には島津に与していた。豊臣秀吉の九州征伐により秀吉に降り、本領を安堵された。
種実は慶長元年(1596年)に没して種長が家督を継いだ。種長は慶長5年(1600年)の関ヶ原役では西軍に与したが、のちに東軍に寝返り、戦後日向高鍋3万石に封ぜられた。
秋月の地は関ヶ原役の功によって筑前一国を与えられた黒田長政の領地になる。長政は元和9年(1623年)8月4日に死去し嫡子忠之が家督を継いだが、この時に長政の遺言により忠之の弟長興に秋月5万石、同高政に東蓮寺4万石を分与し、ここに秋月藩が成立した。

初代長興は兄忠之よりも英邁であり、長政は嫡子忠之に代えて長興を世子にして本藩を継がせようと考えたこともあり、そのため本藩との関係は必ずしもよくはなかったが、忠之死去後光之との間で和睦がなった。
二代長重のころには藩財政はかなり悪化しており、京や大坂の借金返済を一時停止した。宝永元年(1704年)から7ヵ年の倹約令を布れたうえで藩札を発行した。
四代長貞は享保2年(1717年)に定免法を実施し、元文2年(1737年)には蔵米知行制に移行して藩体制を立て直した。

七代長堅は襲封時にわずか5歳であり、その後将軍に拝謁することなく天明4年(1784年)2月10日に15歳で死去した。なお死去時に嗣子がなかった為に秋月藩では喪を秘し、翌天明5年に病による歩行困難の故をもって致仕を願い出た。
このときに日向高鍋藩から長舒を急養子に迎えたが、秋月藩廃止の動きがあったためにすんなり襲封できず、結局天明5年(1785年)9月に至り長舒が襲封した秋月藩の存続と長堅の喪が公表された。
八代長舒は襲封後本藩主斉隆が幼少の為に長崎警備を代行し、斉隆の跡を継いだ斉清も幼少の為に長崎警備を続けた。

長舒が文化4年(1807年)に死去し九代長韶が家督を継ぐ際、この長崎警備にあたっていたために長舒の死は秘匿され、翌年の文化5年(1808年)になって公表されたために、襲封まで間があいている。
長韶も本藩主斉清が幼年の為に、先代長舒同様に長崎警備を代行した。文化年間に家老の不正があって、それが本藩に訴えられたために譜代の家老三家のうちニ家が失脚した。
それにより本藩が政治に介入して、財政再建も本藩の支援と指導により行われたほか、農政や諸制度も本藩のものが導入された。
十代長元の代には、間小四郎らが長元を廃して家老吉田縫之助を藩主に立てようとしているとして小四郎らを流罪とする御家騒動があった。
最後の藩主十二代長徳は明治2年(1869年)の版籍奉還により秋月県知事、同4年(1871年)の廃藩置県により免職となった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
黒田氏のページに戻る
江戸三百藩の表紙に戻る
歴史の勉強

Last modified -