| 歴史の勉強 | ||||
徳島藩 |
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| 藩主 | 在任 | 石高(万石) | 特記 |
|---|---|---|---|
| 蜂須賀家政 | 天正13~慶長5.9 1585~1600 |
18.0 | 当時の城地は渭津 |
| 蜂須賀至鎮 | 慶長5.9~元和6.2 1600~1620 |
25.7 | 当時は渭津藩 |
| 蜂須賀忠英 | 元和6.4~承応元.4 1620~1652 |
25.7 | 渭津藩→徳島藩 |
| 蜂須賀光隆 | 承応元.5~寛文6.5 1652~1666 |
25.7 | |
| 蜂須賀綱通 | 寛文6.5~延宝6.7 1666~1678 |
25.7 | |
| 蜂須賀綱矩 | 延宝6.10~享保13.1 1678~1728 |
25.7 | |
| 蜂須賀宗員 | 享保13.1~享保20.6 1728~1735 |
25.7 | |
| 蜂須賀宗英 | 享保20.6~元文4.12 1735~1739 |
25.7 | |
| 蜂須賀宗鎮 | 元文4.12~宝暦4.5 1739~1754 |
25.7 | |
| 蜂須賀至央 | 宝暦4.5~宝暦4.7 1754~1754 |
25.7 | |
| 蜂須賀重喜 | 宝暦4.8~明和6.10 1754~1769 |
25.7 | |
| 蜂須賀治昭 | 明和6.10~文化10.9 1769~1813 |
25.7 | |
| 蜂須賀斉昌 | 文化10.9~天保14.10 1813~1843 |
25.7 | |
| 蜂須賀斉裕 | 天保14.10~明治元.1 1843~1868 |
25.7 | |
| 蜂須賀茂韶 | 明治元.6~ 1868~ |
25.7 |
| 徳島藩は、阿波と淡路両国を領した大藩で、蜂須賀家政が天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって、阿波に封ぜられたことにより始まる。 この当時は阿波の大半(板東・板西に跨る赤松領1万石を除く)である17万5千石であたったが、次の至鎮の代に淡路一国を加増されて25万7千石となり、以後代々蜂須賀氏が封を継いで、明治維新に至る。 蜂須賀氏の祖は濃尾国境の木曽川を中心とする地域の土豪であり、川並衆として水運に従事していたが、小六正勝が織田信長に仕えて秀吉の与力となったことで運が開けた。 正勝は秀吉の側近として活躍し、秀吉の四国征伐のころには播磨龍野において5万余石を有していた。 正勝は四国征伐にも従い、その結果秀吉は正勝に阿波を与えようとしたが、正勝は老齢を理由にこれを辞退し、嫡子家政に阿波を賜るよう願い出て、これを許された。 これによって阿波には家政が封じられることになった。 蜂須賀氏の阿波入部 阿波に入った家政は、一宮城に入って領国の経営にあたった。阿波の国は室町期は細川氏が守護を勤めたが、その後下克上によって三好氏が台頭し、三好氏が畿内で覇権を争うようになるとその根拠地となった。三好氏は畿内で攻められて敗走すると根拠地阿波に還り、体勢を立て直して再び海を渡って畿内に向かった。 このために阿波は三好氏によってかなり収奪され、三好氏が滅びると土佐から侵攻してきた長宗我部氏によって収奪された。 それによって平野部の農村は疲弊しており、一方西部の険しい四国山地の山間部は、その険しさゆえに三好氏や長宗我部氏の収奪の対象にはならず、長宗我部氏は山間土豪に支配権を安堵し、為に独自の支配権を確立していた。 これら山間部の土豪は当然に排他主義的であって、新領主の統制に反発した。家政が入部してすぐに始めた検地の際にに山間部の土豪の反発が形になって起きた。 検地は領主にとっては家臣の知行割を行なうために必要であり、家政も天正13年(1585年)から天正17年(1589年)にかけて領地の検地を実施した。 平野部での検地は比較的順調に進んだが、山間部の祖谷山、大栗山、仁宇谷などでは検地反対の一揆が起きた。家政はこれに対し自らこ祖谷山に乗り込んで検地を指揮し、美馬郡一宇山の土豪喜多六郎三郎、喜多安右衛門父子を味方に引き込んで祖谷山の土豪たちを説得させた。 これらが功を奏して検地はなんとか行なわれ、この功績で喜多家は祖谷山全山の政所役人に任ぜられた。 これら土豪の一揆に手を焼いた家政は、支配機構を確立するために領内9ヶ所の要地に出城を置いて重臣を配置して体制を固めた。 この城を阿波九城といい、具体的には岡崎・西条・川島・脇・大西・一宮・仁宇・富岡・鞆の九城であるが、これは江戸期の元和元年(1615年)に出された一国一城令で全て廃城とされる。 一方家政は居城とした一宮城から、吉野川河口の三角州の徳島に新城を築城して移ることとした。一宮城や勝端城から資材を運び込んで、天正14年(1586年)には新城の中心部がほぼ完成し、この城を新たに渭津と呼び、引続き城下の整備を進めた。 家政から至鎮へ 慶長5年(1600年)に会津の上杉景勝に謀反の疑いありとしてその征伐が決定されると家政は、会津征伐に赴く家康に15歳の嫡子至鎮を陣に加えてくれるよう頼み、自身は阿波に在国した。 家康が会津に向かった留守に石田三成が毛利氏を担ぎ出して大坂で兵を挙げると、家政のもとにも西軍に加わるよう命令があった。 しかし家政はこれに応ぜず、ついに領地を豊臣家に返上して剃髪、蓬庵と号して高野山に登り光明院に入ってしまう。この行動には蜂須賀家の顧問僧泰雲の意見が大きく影響しているといわれる。 一方で家康の陣にあった嫡子至鎮は、東軍として行動し関ヶ原にも参陣した。兵数は少なくさしたる功もなかったようだが、蜂須賀氏が東軍で戦った実績は残り、戦後阿波国は至鎮に改めて与えられた。実質的に徳島藩が成立したのはこの時といっていい。 なお、その際に阿波国板東・板西両郡内にあった住吉藩主赤松則房は西軍に与したために戦後領地を没収され、住吉藩領1万石は於虎に化粧料の名目で至鎮に与えられ、これによって阿波一国は全て蜂須賀領となった。 高野山に登った家政は、戦後高野山を降りて隠居として至鎮を後見した。初期の藩政はほとんどが蓬庵と号した家政主導によって行なわれた。 阿波に入った至鎮は撫養塩田の開発を企て、播磨から馬居七郎兵衛と大谷五郎右衛門を招いて技術指導にあたらせ、慶長10年に撫養斎田七島の塩田が完成し、そののち播州赤穂に次ぐ良質の塩の産地として知られるようになり、このことは藩の経済に大きく貢献することとなった。 淡路の加増と初期藩政 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣が起こると家政は、自ら江戸に赴いて人質となり徳川家に二心なきを示した。大坂冬の陣には至鎮は8千の軍勢を率いて出陣、穢多ヶ崎と博労ヶ淵の戦いで戦功を挙げて、家康から黄金三百両と感状を将軍秀忠からも多くの感状を贈られた。 また、翌元和元年の夏の陣では、直接戦闘には加わらなかったものの、阿波の軍勢は大坂方を充分に畏怖させ、大坂両陣の功で至鎮には松平姓が与えられるとともに、元和2年(1616年)閏6月3日淡路一国が加増されて、渭津藩(徳島藩)は25万7千石の大藩となった。 元和・寛永のころの徳島藩は藩財政の基盤を固めるための施策として、元和4年(1618年)に御壁書23箇条、寛永14年(1637年)に裏書7箇条を制定し、これはその後の藩政の基礎となった。 御壁書23箇条のうち15条は農民支配を目的としたもので、一揆を禁止して農民の抵抗権を奪い、百姓の土地保有権を認めることで農民を農地に縛り付けて年貢の安定化を目指し、逃散の防止と処罰関係など、農村整備に重点が置かれている。 裏書は阿波と淡路の間の走人防止や人身売買の禁止など、御壁書23箇条を補完する位置づけのものであった。 この御壁書23箇条と裏書7箇条の特徴は、特に走人防止についてであった。走人、つまり農民の逃亡はどの藩でも悩みの種であった。 そこで各種法令で走人を禁止して未然に防止するのであるが、徳島藩では走人自体の禁止のよりも走人後の還往策に重点が置かれていた。 これは阿波国が基本的に海と山に囲まれて他領への走人が容易ではなかったことがあげられる。むしろ走人を援けた人間が処罰された。阿波からは援けなしに走人することは難しかったからである。 元和2年(1616年)に加増された淡路国では、由良城番篠山加兵衛がその仕置にあたったが、基本的には慎重な姿勢で臨み、上方登せ米を保護するなどして領民に不満が起こらないようにし、淡路の領民が政治になれた寛永元年(1624年)にいたって初めて検地を実施するなど配慮した。 淡路に重臣稲田氏を派遣しての、本格的な経営は次代の忠英に引き継がれた。 至鎮は、初期藩政の確立期の途中の元和6年(1620年)2月26日に、35歳の若さで阿波にて没した。 忠英の時代と海部騒動 至鎮の跡を受けて忠英が封を継いだが、忠英は襲封時わずか10歳であり、そのために祖父家政が後見した。家政が死去したのは寛永15年(1638年)であり、それまでの18年間は実質的には家政の執政であった。 この間、寛永2年(1625年)に藍方役所の設置、寛永13年(1636年)那賀郡答島新田に開発、寛永14年(1637年)裏書7箇条の制定などが行なわれ、とくに新田開発では9万2千石余りが打ち出されている。この新田の開発には走人の未然防止の意味もあった。 家政と忠英によって初期藩政は確立を見、その基礎は確かなものとなったはずであったが、家政の死によってそれまでの体制が大きく変化していくことになる。 それは、門閥を中心とした体制から官僚中心の体制への移行であった。逆に言えば家政在世中は古い時代の人間である家政の考えによって藩政を運営せざるを得なかったものが、家政という重石が取れたことによって、新たな体制に脱皮できることとなった。 このようななかで海部騒動がおこった。 海部城番で7千5百石を領する益田豊後長行は、蜂須賀家の姻戚であった。家政の母が豊後の父益田宮内一政の姉であり、家政と長行は従兄弟に当たる。 長行は関ヶ原役や大坂の陣でも功があり、その所領は淡路の稲田氏、那賀郡富岡の賀島氏につぐもので、江戸家老・江戸仕置として藩政の中枢に位置した。 長行は禁制を破って海部郡内の山林の木を勝手に伐採し、江戸に輸送して売り捌こうとした。この噂が忠英の耳に入り、直ちに藩士が派遣され、ことが事実とわかり長行は寛永10年(1633年)領地を召し上げあれ、大栗山に幽閉された。 これに対して長行は公儀に、藩が幕府禁制を破り大船を建造し、さらに切支丹への宗門改めを怠っていると訴えでた。 藩からは長谷川貞恒が出て長行と対決し、正保3年(1646年)に幕府の裁断が下った。長谷川の弁明は滞りなく、一方豊後長行は答えにつまり、豊後の訴えは根拠なきものとの断であった。 もともと大船建造や宗門改めの怠りなどの事実はないのだから、あたりまえのことで、長行は忠英に引き渡され、江戸藩邸で処刑された。 表向き海部騒動は益田豊後長行の一方的敗北に終わるが、その裏にあったものは益田豊後の権力を背景にした秕政であった。 特にこのころ幕府の西国に対する監視が厳しくなり、諸国にはしきりに巡見使が派遣されていた。忠英は益田豊後の秕政が巡見使の知るところとなるのを極度に恐れていた節がある。 それともう一つは、門閥体制の打破であろう。先に阿波国内に有力な地盤を持っていた稲田氏を淡路に移したように、益田豊後も門閥体制を打破するために標的の一人であったのだろう。 海部騒動の発覚する前年の寛永9年(1632年)忠英は、門閥体制から官僚体制への転換を図るために、仕置家老に池田玄寅と長谷川貞恒を任じ、その下に太田金右衛門、斉藤八兵衛、岩田弥二右衛門の3人を国奉行に任じた。 しかし門閥制度から官僚制度への転換はなかなか進まなかった。 海部騒動は、藩の体制を門閥体制から脱却し官僚体制に転換しようとする中で、門閥体制の中心であった老臣が起こした事件であり、官僚体制への移行は藩祖以来の老臣に不満を生じさせたことから起きたといえる。 光隆の時代 忠英はともあれ藩の支配体制を官僚中心に変革した。しかしその直後の承応元年(1652年)4月42歳の若さで江戸で没してしまう。跡を継いだのは光隆であった。 光隆は寛文4年(1664年)4月に13郡に分かれていた阿波国を、板東・板西の2郡を合せ板野郡に、名東・名西の2郡を名東郡に、那東・那西の2郡を那賀郡とし10郡にしたが、このときに渭津を徳島と改めた。 光隆は、機構改革・藩政整備の総仕上げとして阿波全域に棟附改めを実施した。これをもって徳島藩独自の身居という身分支配の敢行を定着させていった。 この政策は税負担者の確定と身分の固定化を意味し、領内各戸を壱家と小家に分けて固定した。壱家とは本家、小家とは分家であり、租税の完納は壱家の責任とされた。 さらに各戸には身居の肩書をつけて、それぞれ本百姓・百姓・間人・名子・下人・見懸人などと記録した。 間人は田畑を失ったが本百姓への復帰を目指す半自立者、名子・下人は隷属農民のうち壱家と血縁関係のないもの、見懸人は他村からの入村者であった。 いずれにしても、この棟附改めで阿波全域の農村の状態は確実に把握され、税の徴収の体系化がなされ、農村支配体制が確立された。 農村支配体制と藍作 徳島藩の地方支配体制が確立し、経済的な基礎が安定してきたのは寛文~延宝期(1661年~1680年)であった。 阿波の特産である藍作が最盛期を迎えるのは、この寛文~延宝年間に完成を見た支配体制が機能し始めた元禄期(1688年~)以降である。 阿波の藍作は北方の吉野川流域で行なわれていた。これに対し阿波南部と淡路は米作地帯であり、阿波西部の山間部は煙草の栽培や林業を中心とする地帯であった。 藩では北方の藍作地域に対しては比較的早くからその優位性に着目し、勧農政策を実施してきた。 寛永2年(1625年)に藍方役所の設置して、農民に対する指導体制を整え、やがて藍玉は阿波の特産品となり、元禄期以降は全国規模の産品となっていった。 享保12年(1727年)になると藩では藍作地帯に対する検地を行って年貢の増微を図り、享保18年(1733年)には藍方奉行所を設置して、葉藍の売手と買手双方から取引税を取り立てる新税制の実施に踏み切った。 さらに享保20年(1735年)には専売制の確立を目指すために諸役を任命して、藍作地帯の支配体制強化に乗り出した。 明和の改革を実行した十代藩主重喜は、明和3年(1766年)に藍玉の他国売りを藩が一手に行なうように改め、それまで大坂の問屋が握っていた藍玉相場を藩が握った。 大坂の問屋衆は無法として幕府に訴えたものの徳島藩の勝訴に終わり、藩では以後大坂の問屋を15人に指定することによって、さらに市場を広げることに成功した。 次いで寛政3年(1791年)には藍玉売買を4人の問屋に移すことによって専売制の強化を図っていった。 重喜の改革 これらの施策は商業資本の進出、貨幣経済の浸透となって藩財政の悪化の大きな原因となっていった。 他藩同様徳島藩でも相次ぐ課役や災害などによって、藩の財政は悪化し、特に五代綱通以後にそれが顕著になっていった。 代々の藩主は支出の抑制と収入の増加に努めたが、いずれも小手先の消極策で、財政の抜本的改革には至らなかった。 やがて藩主となった十代重喜は、窮乏化した藩財政を立て直すべく改革に着手した。 悪化した藩財政の建て直しに意欲を燃やした重喜は、吉野川流域の藍作に注目して、葉藍の売買に税をかけることにした。同時に寝床株を定めて、小規模業者を切り捨てようとした。 このために宝暦6年(1756年)11月に農民が立ち上がり一揆を起こした。これを藍騒動という。藩では農民の要求を入れざるを得なくなり、藍改革は頓挫した。 藍に対する新税賦課が不発に終わり、重喜は行政機構の再編強化策として職班俸禄制を実施した。徳島藩では役職と給禄によって班が編成されていたが、高禄者が当然のように高位についた。 重喜は低禄者でも高位につけるように編成を解体し、職に応じて加禄し、職を去れば原班に戻して禄も元に復するとした。しかし、この案は老臣山田織部真恒ら守旧派の反対で実現は見送られた。 重喜はあきらめず、筆頭家老稲田九郎兵衛稙久の協力を得て案を強行、反対する山田真恒を罷免し閉門とした。また山田真恒と同調した賀島政良と長谷川貞幹も閉門とされ、家老5人のうち3人が罷免されるという事態となった。 重喜は改革を推し進めるために自らも倹約の先頭に立ち、藩主の経費を千両から二百両に削り、食膳は一汁一菜、世子の乳母を2人から1人にし、正室や子供の費用も9割をカット、衣服も擦り切れるまで着用するなど徹底した倹約で範を示した。 行事も公儀と関係のない行事は一切中止、社倉を設けて穀物を備蓄、困窮化した家臣には藩米売却で得た金を貸し付けた。 また御鷹場を開発して新田にし、職人の失業対策として藩主別邸を建築した。これらの改革を率先したのは仕置家老となった稲田九郎兵衛稙久で、明和3年(1766年)には若年寄を設けて柏木友郷を任用した。 だが、これらの改革は反発も強く、藩上層部の不和を招いた。これが幕府に聞こえ、明和6年(1769年)に出府した重喜は藩内の不和について設問され、閉門となった。 同年10月に隠居させられ、家督を嫡子治昭に譲る。安永2年(1773年)に帰国を許されると大谷に別邸を設け、今度は著名な金蒔絵師観松斎桃葉を召抱えたり、陶芸や茶道に嵩ずるなど派手で豪奢な生活を始めた。 これがまた幕府に聞こえ、幕府は重喜を江戸に呼んで幽閉しようとしたが、治昭は老中に哀訴し、江戸幽閉は免れた。 治昭の諌めもあって、以後は質素な生活に戻り、享和元年(1801年)10月20日64歳で死去した。 上郡一揆 以後藩では抜本的な対策が採られないまま過ぎ、やがて幕末期を迎える。幕末期は多くの藩で一揆の多発をみたが徳島藩も例外ではなかった。 とくに天保12年(1841年)12月、斉昌の代に起きた、三好郡山城谷の村民が隣接する伊予国今治藩領に逃散することに端を発した上郡一揆は大規模なものであった。 これは、この地域で栽培されていた煙草に対する課税強化に端を発した騒動で、結局藩は農民達の要求を全面的に認めなければならなかった。 この事件は他藩との交渉を必要としたが、その交渉中にも逃散に加わらなかった村々の百姓が蜂起し、打ちこわしをはじめ、一揆は三好・美馬・阿波・板野の各郡に拡大していった。 藩では一揆の解決の為に農民に対して大幅に譲歩、仕置家老賀島政延を罷免し、一揆の指導者まで減刑せざるを得なかった。 一方で、幕末に世は向かって急速に変革しており、その象徴的な出来事の一つであった上郡一揆は、藩の重臣稲田家を敏感にさせた。 稲田家の家臣も当然に一揆の標的にされ、それが稲田家中の論を倒幕に向けていくのである。 斉裕の時代 斉昌の跡を継いだのは斉裕であった。斉裕は十一代将軍徳川家斉の第22子で、文政4年(1821年)江戸城で生まれ、文政10年(1827年)閏6月先代藩主斉昌に養子となり、天保14年(1843年)斉昌の隠居により家督を継いだ。 斉裕の時代は激動の時代で、その幕開きはすでに先代斉昌の時に訪れていた。文政12年(1829年)に海部郡の沖に黒船が停泊し大騒動になった。 これにより藩では海岸部に対する防備に重点をおき、とくに淡路の防備を強化、淡路洲本城代の稲田氏が海防の責任者となった。 一方、天保年間に入ると財政難は進み、藩内では大規模な一揆が発生した。 家督を継いだ斉裕は、この時局に対処するために財政と軍制の改革を柱とした藩政改革を計画したが、重臣たちの協力を得られずに挫折し、そのために財政の窮乏化が一層進んだ。 藩では藩士の知行地の3割削減を行なったが、所詮対症療法に過ぎず、財政悪化には歯止めがかからなかった。仕方なく領内の富商からの献金や借金で賄わざるを得なかった。 一方幕府からは江戸湾の大森と羽田の警備を割り当てられて原士を派遣、軍制を英国式に切り替え、淡路の由良と岩屋に砲台を構築した。 また、人材育成の為に江戸藩邸に長久館を開校して文武の鍛錬に資した。 幕府は文久2年(1862年)斉裕を陸軍総裁兼海軍総裁に任命したが、重臣たちは辞任を求めている。これは徳島藩が佐幕派と見られることを恐れたためにとされる。 一方で斉裕の政治方針は公武合体であり、軍事総裁就任もその路線を主導するためであったらしい。 このような状況中で第一次長州征伐が起き、徳島藩も参加。これが徳島藩に佐幕派の印象を与えた。さらに第二次長州征伐にも参加を要請され、断りきれずに兵船を讃岐沖まで進めたところで、征長は中止となった。 その後斉裕は元治元年に京都警備の為に藩兵を派遣、一方で城下に人材育成の為に洋学校を開校、イギリス公使アーネスト・サトウを城下に招いて意見交換するなどした。 これらは外部からは開明派とも見られる反面、佐幕派の一面も否定できず、事実藩内の意思統一が図られないまま時間が経過した。 このような中、重臣稲田家は藩論とは関係なく、攘夷派として行動し始めた。これは後に稲田家の独立騒動である、稲田騒動に発展していく。 斉裕は最後まで倒幕か佐幕かを鮮明にせず、明治元年(1868年)正月6日に48歳で死去した。 幕末の徳島藩 徳島藩最後の藩主となる茂韶は、先代斉裕の嫡子として江戸で生まれ、明治元年(1868年)斉裕の死去によって襲封した。 茂韶は、襲封すると直ちに倒幕派を宣言して、戊辰戦争に参戦し、その最終段階である東北白河口に派兵して朝敵の汚名を免れることができた。 一方で淡路洲本の城代である稲田家は早くから倒幕を鮮明にして、徳島藩とはかかわりなく戊辰戦争に参加ており、その行動は評価されていた。 明治2年(1869年)の版籍奉還により茂韶は徳島藩知事となり、藩制を総務・民政・会計・軍制の四局制に改編し、旧藩士を士族として10等級に格付けし、その給与は旧俸禄の一割に削減した。 また陪臣は士族とされずに銃卒とされた。この改革に不満を持つ稲田家では明治3年(1870年)に戊辰戦争での功績を理由に、藩知事に対して主従の士族編入を願ったが拒否された。 すると淡路を徳島藩から分離し、当主稲田邦稙を藩知事とするよう政府に要請した。この動きに対して藩では稲田家を排斥し、襲撃事件まで起きた。 政府では稲田家の独立を認める代わりに北海道移住を命じ、襲撃事件を起こした藩士を処罰した。これが廃藩置県後に淡路が徳島県ではなく兵庫県にされた理由という。 その廃藩置県は明治4年(1871年)に行なわれ、茂韶も免官となり徳島藩の歴史もここに終わった。 平成19.3.24 第一版公開 平成19.5.28 加筆修正 |
| 参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩幕制国家の成立(有斐閣)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ |
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