歴史の勉強

勝山藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
内藤清政 元和8.?〜元和9.6
1622〜1623
3.0 除封
内藤正勝 寛永3.?〜寛永6.8
1626〜1629
2.0 除封
酒井忠国 寛文8.6〜天和3.1
1668〜1683
1.5  
酒井忠胤 天和3.3〜正徳2.7
1683〜1712
1.2  
酒井忠篤 正徳2.9〜元文2.5
1712〜1737
1.2  
酒井忠大 元文2.7〜宝暦6.3
1737〜1756
1.2  
酒井忠鄰 宝暦6.5〜寛政5.5
1756〜1793
1.2  
酒井忠和 寛政5.5〜文化7.10
1793〜1810
1.2  
酒井忠嗣 文化7.12〜嘉永4.9
1810〜1851
1.2  
酒井忠一 嘉永4.11〜万延元.11
1851〜1860
1.2  
酒井忠美 万延元.12〜
1860〜
1.2  

元和8年(1622年)に徳川家康の側近として仕えた内藤忠政の孫の清政が、安房国平郡、長狭郡で3万石を得て勝山に陣屋を構えたのが勝山藩の始まりである。しかし清政は翌元和9年に没し嗣子がなかったために除封となった。
その後、内藤家の功が認められて寛永3年(1626年)に清政の弟正勝に2万石が与えられ、勝山藩が再興された。だが、正勝も寛永6年(1629年)に22歳の若さで死去し、嫡男重頼は1歳であったので1万5千石を収公された。
内藤家は長狭郡内5千石の旗本となり、ここに勝山藩は再び廃藩となった。なお、重頼はのちに累進して再び大名となり、重頼の子の清枚は信濃高遠藩主となって明治維新まで続いている。

その後、勝山の地は若狭小浜藩主酒井忠勝の支配地となった。忠勝は家光、家綱の信頼が厚く、大老にまで昇任した譜代の重鎮で、関東での賄い領として安房国内に領地を与えられた。
忠勝には嫡男忠朝がいて若年寄まで勤めたが、忠勝の勘気に触れて廃嫡のうえ安房国平郡に蟄居させられ寛文2年(1662年)3月に同地で死去した。
忠朝の子の忠国は父の死後、若狭小浜藩主酒井忠直から安房国平郡7千石、越前国敦賀郡3千石、合計1万石を分与され安房勝山に陣屋を構えて勝山藩を立藩した。
忠国は天和元年(1681年)に奏者番兼寺社奉行となり、翌天和2年に安房国平郡、上野国群馬郡内で5千石を加増され勝山藩は1万5千石となる。

天和3年(1683年)に忠国が死去し忠胤が襲封するが、このとき安房国平郡内の3千石を弟忠成に分与し勝山藩は1万2千石となった。
忠胤-忠篤-忠大-忠鄰と続き、忠鄰のときに旱魃による年貢減免と藩役人の非法を訴える百姓一揆が起き、老中への駕籠訴にまで発展し、藩役人が処罰される騒動が起きた。
忠鄰は寛政5年(1793年)5月に致仕したために忠和が襲封し、その後は忠嗣、忠一と継承された。
忠一の代には外国船の来航が頻繁になり、自領の警備強化を命ぜられて、防備状況などを随時幕府に報告している。

また忠一は藩政改革を実施し緊縮財政、殖産振興、人事刷新などに手を付けたが、改革半ばの万延元年(1860年)に死去し、最後の藩主となる忠美が封を継いだ。
明治元年(1868年)10月に上野群馬郡内7ヶ村、安房平郡内12ヶ村が上知となり、安房平郡内の12ヶ村が替地として与えられた。
戊辰戦争では最初反新政府軍的な態度であったが、のちに新政府軍に恭順して木更津に出兵し幕府軍と交戦している。
明治2年(1869年)に勝山の地名を加知山と改め、同年の版籍奉還により忠美は加知山藩知事となり明治4年(1871年)に廃藩置県を迎えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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