歴史の勉強

広島藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
毛利輝元 天正19.3~慶長5.10
1591~1600
112.0  
毛利秀就 慶長5.10~慶長5.10
1600~1600
112.0 長門萩へ
福島正則 慶長5.10~元和5.6
1600~1619
49.8 尾張清洲より
信濃川中島へ
浅野長晟 元和5.7~寛永9.9
1619~1632
42.6 紀伊和歌山より
浅野光晟 寛永9.10~寛文12.4
1632~1672
42.6→37.6(分知)  
浅野綱晟 寛文12.4~寛文13.1
1672~1673
37.6  
浅野綱長 寛文13.2~宝永5.2
1673~1708
37.6  
浅野吉長 宝永5.3~宝暦2.3
1708~1752
37.6→42.6
(支藩無嗣により収公)
 
浅野宗恒 宝暦2.3~宝暦13.2
1752~1763
42.6  
浅野重晟 宝暦13.2~寛政11.8
1763~1799
42.6  
浅野斉賢 寛政11.8~文政13.11
1799~1830
42.6  
浅野斉粛 天保2.1~安政5.4
1831~1858
42.6  
浅野慶熾 安政5.4~安政5.9
1858~1858
42.6  
浅野長訓 安政5.11~明治2.1
1858~1869
42.6  
浅野長勲 明治2.1~
1869~
42.6  

戦国大名毛利元就の嫡孫輝元は、天正17年(1589年)4月に太田川河口のデルタ地帯に新たに城を築いた。これが広島城で、ここから広島の歴史が始まるといっていい。
輝元は秀吉の時代には五大老の一人であり、112万石の大大名であったが、周知のように関ヶ原役で西軍の総帥となったために、戦後長門萩36万石に減転封され、そのあとに福島正則が49万8千石で入封し、実質的な広島藩政が始まった。

福島正則

福島正則の広島入封は関ヶ原役の論功行賞にほかならなかった。徳川家康が関ヶ原で勝利し天下人になったのは、自信の実力と福島正則や加藤清正の与力のお蔭であった。
特に福島正則は自他共に認める豊臣恩顧の大名であたったが、石田三成ら吏僚派の大名と対立し、そこを家康に巧妙に付け入られ、結局家康を天下人にしてしまった。
家康は関ヶ原役が終わると、見方をしてくれた豊臣恩顧の大名に大盤振る舞いの加増をし、同時に体よく遠隔地に追いやってしまった。

福島正則はそれまで尾張清洲24万石であったが、倍以上の49万8千石を与えられ、その代り安芸広島に移封された。
家康にすれば本拠の江戸と上方を結ぶ東海道に近い地に、24万石もの豊臣恩顧の大名などいてもらっては困るのであった。
それに中国地方の太守であたった毛利氏を防長二国に押し込め、これを監視させる目的もあった。

正則の領地は安芸と備後の2ヶ国で、広島に入ると小方、三次、東城、三原、神辺、鞆に支城を構えて、一族と重臣を据えた。
これらの支城在住者を除き、家臣は広島城下に住んだ。基本的に地方地行制であったが、給人と給地の結びつきは弱く、年貢率も郡奉行が蔵入地(藩主直轄地)とともに一括して決定していた。
正則は、その後城下の整備、地方支配体制の整備、税制の整備、交通の整備などを次々に行い、領内を整備していった。

一方で家康は、正則の意図とは異なって豊臣家を滅ぼす決心を固めた。正則が家康の味方したのは豊臣家に仇なす石田三成らを除くためであって、家康を豊臣家に取って代わらせるためではなかった。
しかし家康は豊臣家に取って代わろうとしていた。この様子に正則は身中穏やかではなかったが、今となってはどうしようもない。
大坂の陣でも出陣を赦されず、遠くから豊臣家が滅びていくのを見ているしかなかった。

元和2年(1616年)、前年に豊臣家が滅び正則は失意のうちに帰国した。翌元和3年長雨によって広島城下は水害に見舞われ、城の石垣も破損した。
正則は石垣の修理を再三幕府の執政本多正純に願いでたが、正純は曖昧な答えしかせず、正則は修理の許可が出たと解釈して、石垣を修理した。
これが武家諸法度違反として幕府の咎めるところとなって、結局元和5年(1619年)に改易され信濃川中島に移された。
もちろんこれは幕府の策略で、豊臣恩顧の正則を取り潰すこと事態が目的であった。

浅野氏の入封

正則に代わって広島に入ったのは、浅野長晟であった。浅野氏は長政が秀吉と相婿であったことから、早くから秀吉に仕え、その奉行として知られた。
関ヶ原役では長政の嫡子幸長が正則らとともに家康の与して戦った。幸長も正則や加藤清正、黒田長政、細川忠興らと同様に武断派を構成していた。
幸長は慶長18年(1613年)の38歳で世を去り、跡をその弟長晟が襲った。これは家康の意向ともいわれ、長晟は家康の信任も厚く、元和2年(1616年)に家康の三女振姫を娶る。
当時の封地は紀伊和歌山であったが、大坂の陣後に正則改易のあとを受けて安芸広島に移封された。

長晟入封後広島藩は明治維新まで浅野家が支配すこととなり、その藩領は安芸一国と備前8郡の計42万6千5百石であった。
長晟は入封後領主交代による動揺を抑えるために各郡について5~6千石を単位として代官を置いた。また重臣の浅野知近を三次3万石、上田重安を小方1万石、亀田高綱を東城7千石、浅野忠吉を三原2万8千石に配している。

一方で、一般の藩士についても元和6年(1620年)1月には知行割をし、その際には家老以外は原則として一村一人の知行とせずに、一村を複数の藩士が知行とする入会制をとった。
したがって地方知行制ではあったが、藩士と農民の関係は薄れて、実質的には年貢収受の関係だけでつながっていた。浅野家ではこの後、延宝3年(1675年)~元禄11年(1698年)を除き地方知行制が維持されるが、その藩政の初期から実質的には地方知行の本質は失われていた。

さらに地方支配機構としては郡代・代官の制が敷かれ、各郡に数名の大庄屋を定めて村々の庄屋・組頭を統括させた。
広島城下では町奉行のもとで組制を敷いて自治的な町政を行なったが、これは福島氏の時代を踏襲している。
さらに郡中法度を発布して農政の基本法とし、百姓保護と農民の耕作専念や逃散防止を定め、年貢を安定的に確保することとした。このために十人組を作って連帯責任を負わせた。

税制は福島時代を基本的に踏襲し、文教面では兄幸長の時に召抱えた堀正意を重用したほか、元和9年(1623年)に石川丈山を招いている。
海運にも力を入れて元和10年(1629年)には浦触れを出し、水軍及び海運を整備した。
このように初期の広島藩政は長晟によって整備され、以後の藩政の方向はこの時に定められた。

光晟の時代

長晟が寛永9年(1632年)9月3日に43歳で死去すると、跡を光晟が継いだ。
光晟は、先代長晟の二男であったが、母が徳川家康の三女振姫であったために長晟の世子となり、寛永4年(1627年)8月江戸城において元服して松平の姓を許される。
寛永9年(1632年)長晟の死去により家督を継ぐが、長晟の庶長子長次のために支藩の三次藩(5万石)を立藩している。これは、父長晟の遺志であり、将軍家のお声掛りもあったとされる。
三次藩はその後5代に渡って継承されるが、五代長寔に嗣子なく、本藩に収公される。

光晟は、三次藩分知分5万石を補うためもあって寛永15年(1638年)及び正保3年(1646年)に検地を行い、不足分を打ち出して42万石の格式を保持している。
また、この検地によって税制改正を行い新たに土免制を実施した。土免制とは毎年の植付けに先立ってその年の年貢率を決定し、豊凶にはかかわらず先に決定した年貢率で年貢を納める制度をいう。決定には前年の作柄なども考慮されたが、検見取りに伴う百姓の負担を省き生産意欲を刺激することが目的であった。
一方土免制の採用は藩側にとっても効果的、効率的に年貢を徴収できるメリットがあり、藩財政の安定化にも繋がった。

寛永10年(1632年)光晟襲封の翌年に、将軍代替りの幕府巡見使の巡察の際に、西国街道の整備や三田川舟運の開通など交通網を充実させた。
翌寛永11年には光晟自ら領内を巡視し、これが浅野家では代々慣例となり、歴代藩主は在封中一度は領内を巡見することとなった。
光晟は先代長晟が固めた藩政の基礎を、より一層確実なものとし、その安定に心を砕いた藩主であった。

財政の逼迫と赤穂事件

光晟は寛文12年(1672年)4月に56歳で隠居し、その跡を継いだ綱晟は在封1年も満たずに病死したため、綱晟の嫡男綱長が藩主となった。
綱長は好学であり、朱子学の津村久敬、堀正修などの学者を側近にして文治政治を推進した。これは一見すれば、世の中が落ち着いて余裕が出てきた現われであったが、消費経済や華やかな文化は藩財政を圧迫し始め、財政悪化の大きな要因となった。

悪化した財政に対処すべく倹約令を出して支出の抑制に努め、藩士から借上げを実施したが効果は上がらなかった。そのために元禄9年(1698年)に鉄座、宝永3年(1706年)に紙座を設けて、藩の特産品でもあった鉄や紙の専売制を実施している。
元禄10年(1697年)には、やはり特産である綿改所を新設し、扱苧、荒苧の運上をとるなど増収を図っている。また、銀札を発行して正金銀の使用を禁止するが、これは領民の反発が強く中止の止むなきに至った。
また綱長は、幕府の寺社統制にならって領内でも日蓮宗不受不施派を弾圧し、一方で浄土真宗を擁護した。

元禄14年(1701年)3月には一族の播磨赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城中で吉良上野介義央に刃傷に及び、即日改易され切腹となる大事件を起こした。
綱長はこれを聞くと連座を恐れて、家臣井上団右衛門正信らを赤穂に派し、赤穂浅野家家老大石内蔵助良雄に穏便な開城を迫る。

その後も赤穂浅野家遺臣による吉良家敵討ちをやめさせる工作を行なった。しかし翌元禄15年に討ち入りが行なわれ、赤穂47士が英雄視されると、大石内蔵助の遺児良武を召抱えるなど浅野家の宣伝に利用した。
綱長は在任35年に及び、文化的な面では大いに見るべき治世であったが、反面財政の悪化が急速に進み、積極的な財政再建策がとれずに、藩財政の窮乏化を招いた。

吉長の藩政改革

綱長の跡を継いだのは吉長であった。吉長は改革意欲に燃えて、率先して改革の先頭に立った藩主であった。一方で、改革により支配を強化された農民の激しい反発を招き、藩政史上最大の一揆が起こり、結局その改革も中途半端に終わってしまった。
吉長は、先代綱長の子として天和元年(1681年)誕生、宝永5年(1708年)の綱長の死により封を継いだ。襲封時28歳、意欲に燃えて最初に実施したのは機構改革であった。

まず、藩政の執行をそれまでの家老職から、小姓組の加判役に年寄の称号を付与して、これに掌らせた。そのうえに藩主である吉長が据わる、藩主直裁の体制とした。
年寄以下奉行の合議の場として御用達所、また行政府として御用屋敷を設置した。これまでは役宅を庁所としていたものを、城内に公設の場を設けることで、公私の別を明らかにし、政務に公正を期した。

正徳2年(1712年)には郡方新格を発布し、地方行政改革に着手する。代官-番組という支配体制を改めて、各郡の政庁として郡役所を置き、そのうえに郡奉行を置いて一郡支配を確立した。
各郡には大庄屋の中から40人の所務役人を取り立て、その下に81人の頭庄屋を置き、これらに対して扶持、役銀を支給した。つまり村役人を官僚化して権威を持たせ、農民支配の強化を図り年貢増収に繋げたのである。

さらに年貢率を上げ、享保2年(1717年)からは定免制の採用に踏み切った。正徳2年(1712年)に触を出して検地の準備も進めたが、これらの動きに対して農民の反発が強まり、さらに隣接する福山藩内で起きた一揆にも刺激されて、享保3年(1718年)に三上郡で一揆が起き、たちまち領内全域に波及した。
藩では、役人を派遣して説得にあたったが一揆は静まらず、ついに所務役人、頭庄屋をいっせいに罷免し、閉門を申し渡した。
結局、藩では一揆側の要求をほとんど受け入れざるを得なくなり、機構改革は頓挫し、地方支配機構を全て改革前に戻すことで決着を見た。

その間に藩財政は悪化し、このため再度藩札の発行を行なった。しかし準備銀が不足し、藩札は額面の2割に暴落し、一層藩士の生活は困窮した。
農村では、享保17年(1732年)の凶作の影響が大きく、これを機に藩では各村に社倉を設けて備荒に備えた。
吉長は、歴代藩主の中でも好学で知られ、幕府儒官林家門下の味木忠行、その門下の寺田高道、山崎闇斎の高弟植田成章など高名な儒者を登用し、享保10年(1725年)に白島の稽古屋敷内に講学所(のちに講学館)を設置した。
武芸では甲州流軍学を採用して武具奉行を置いて武器、武具の充実に努めて士風を高めた。

宗恒と重晟の藩政改革

吉長は宝暦2年(1752年)に72歳で死去し、その跡を宗恒、次いで重晟が襲う。宗恒と重晟はともに改革に積極的な藩主であった。
宗恒の代は、初期は比叡山延暦寺堂塔修復などの公役を課せられたほか、城下の大火、領内全域の凶作などが原因で財政悪化が急速に進んだ時代であった。
宝暦3年(1753年)に俸禄を半減するなどしたが、抜本的対策にはほど遠く、そのために宝暦4年(1754年)に永代家禄の廃止を決め、相続人の能力によって相続できる家禄が上下するという、世襲制、門閥制を否定する画期的な制度を導入した。

さらに倹約を旨とした改革を実施して財政を好転させ、村役人に対して抜き打ちの会計検査を行なって不正を正し、広島城下でも町費を毎日集めさせて財政再建に寄与した。
宗恒の跡を継いだ重晟は、宗恒の意を継いで引き続き藩政の改革を推進し、自ら質素倹約を実行し、明和2年(1765年)には触を出して家中・城下での全ての贈答を禁止し、絹物の着用もやめさせた。

重晟の代には、領内では洪水や凶作などの災害が相次ぎ、幕府の公役も課されたが、社倉法を領内全域に広めて備荒に備え、他国商品の領内への流入を抑制して、積極的な国産品奨励策を実施した。
絹、養蚕、灯油専売など藩営事業や株仲間の公認を行なってバックアップをし、寛政7年(1795年)には他国商船の広島寄港を認めて交易を行なっている。

これら先代宗恒から重晟の代の諸改革、諸政策によって藩財政は立ち直りを見せた。特に重晟は後世「浅野家累世中の名君」といわれるほどの藩主で、教育にも力を入れて、頼春水や香川南浜を登用し藩学を朱子学に統一した。
また天明3年(1783年)に藩校修道館を開校し、歴代藩主や藩政を記録した「済美録」「事跡緒鑑」を編纂した。

芸候の商売上手

重晟は寛政11年(1799年)8月に隠居して、封は斉賢が継ぐ。宗恒、重晟の二代に渡って行なわれた藩政の改革と、それに伴う藩財政の立ち直りを受けて、財政は比較的安定していた。
幕府の公役出費は在封中6万5千両に達し、藩財政に少なからぬ負担となったが、一方で国産品奨励策と新産品の開発と他国への売り捌きルートの開拓など、積極的な政策を推進して財政の充実を図った。

文化14年(1817年)に勘定所に諸品方(産物方)を設け、領内の諸産品を買い占めて、江戸、京、大坂へ移出して販売したほか、産物の開発への資金貸与、助成などを行なった。
具体的産物としては、造船用コルク材として使われるあべまき皮、沼田・高宮両郡の川上茣蓙、菅笠・草履、線香などがあった。
また、藩営事業としては甘蔗の栽培と黒砂糖の製造、はぜ・楮・桐などの植林、藍玉の製造販売などがあった。

このころには周辺諸藩の米を割安で買い入れて、大坂の米相場を見合わせ、有利なときに大坂で売り払って利益を得る大坂登せ米を積極的に行なって「芸候の商売上手」などとも言われている。
教育面でも重晟の代に引き続き頼春水ら朱子学者、香川南浜らを登用した。この時期領内では三原浅野氏の朝陽館、東城浅野氏の蒙養館など私塾も盛んになり、文政期には過去七代藩主の事跡を記した「済美録」や藩の地誌である「芸備通志」も編纂された。

幕末に向かって

一旦持ち直した藩財政も、幕末期に入ると再び危機的情勢となった。文政13年(1830年)斉賢が死去し、15歳で斉粛が襲封した。
この直後に天保の大飢饉が襲い、斉賢の代まで比較的順調に推移してきた藩財政はたちまち悪化しだし、藩札の乱発も加わって物価は高騰した。
このため広島城下をはじめ、尾道、竹原などの各町では打ちこわしが起き、農民一揆も続発した。

この事態に対して藩では倹約令強化、藩士の俸禄引き下げ、大坂商人からの借金など消極策しかとれず、財政悪化は急速に進行した。
さらに藩上層部で従来の重商主義的な政策を行なう主流派とこれに反対する改革派の主導権争いも起きた。この騒ぎの中で斉粛は隠居し、その跡を慶熾が継いだ。

慶熾は少年時代に薩摩の島津斉彬の薫陶を受け、長じては土佐の山内豊信や越前の松平慶永などと親交が深く、英明であり藩内の期待を担っての襲封であった。
しかし、襲封のわずか4ヶ月後に病に伏し、安政5年(1858年)9月10日江戸にて23歳の若さで病死した。急病死であったため嗣子がなく、藩ではその死を秘して、青山浅野家の長訓を養子に申請して、その後11月2日に喪を発した。

長訓は封を継ぐと領内を巡見し、次に人事刷新に着手した。このころの藩政の実権は、先々代斉粛の代に執政となった今中相親が握って、城下の豪商と手を結んで経済政策等を実施していたが、放漫財政に陥っていた。
これに対して改革派は、家老浅野忠是を盟主にして、そのもとで辻将曹が中心となって、武備の充実、士気の高揚を目的とした改革を行なうことを主張していた。

領内巡見を終えた長訓は、改革派の登用を行い、辻将曹を責任者に据えて藩政改革に乗り出した。軍制は甲州流から洋式に改革され、大砲の鋳造が行なわれ、文久3年(1863年)からは農兵を徴募して、その訓練も行なわれた。
地方支配機構も改革されて中央集権体制が強化され、郡役所には新たに勧農方、賞罰方、当用方、郡免割方、吟味方、銀方などが設置された。

征長と広島藩

文久3年の政変によって長州藩毛利氏は朝敵となり、征長軍が組織されて、その本拠地として広島が選ばれると城下の動きが慌しくなり、続々と広島入りした諸藩の兵は城下の寺社や屋敷に溢れた。
これを迎え撃つ長州藩は、これら内敵に加えて米・英・仏・蘭の4ヶ国艦隊の攻撃にも直面していた。

この事態に広島藩主長訓は、4ヶ国艦隊を説諭して退去させた後に、征長軍を起こすことを幕府に献言し、一方長州藩でも藩主毛利敬親は幕府に恭順し、責任者の家老を処罰した。
その家老の首級は広島藩が取り次いで幕府に届けられ、ここに進軍は中止され第一次征長は幕となった。
この征長によって広島城下は思わぬ活気を呈し、多くの金銀が城下に落とされた。

第一次征長は中止となったが、その後長州藩は幕府の召に応ぜず、ここに第二次征長が発せられ、将軍家茂の親征となった。
広島藩は先鋒を命じられ、城下は非常事態に入る。しかし、広島藩は長州藩の弁明に努め、長州藩でも広島藩に対し幕府へのとりなしを依頼してきた。
だが幕府の態度はかたくなで、広島藩の年寄野村帯刃、辻将曹に謹慎を命じた。この事態に広島藩の反幕的な空気は徐々に強まり、ついに先鋒を辞退するまでになった。

第二次征長が開始されたが幕府軍は敗戦を重ね、家茂が大坂城で死去すると正式に休戦となった。
この一連の不手際で幕府の権威は失墜し、広島藩も反幕に急速に傾き、慶応3年(1867年)10月8日薩長との同盟に参加して、薩・長・芸の三国同盟が結ばれた。
しかし広島藩はかねてからの藩論であった政権奉還建白書を土佐藩に次いで提出し、これに反対する薩長との間に軋轢を生んだ。

武一騒動

結局、大政奉還は慶応3年(1867年)に将軍慶喜の決断を持って行なわれ王政復古となったが、長訓はこの間の心労がたたったのか、慶応4年(1868年)5月に病を発して、世子長勲に藩政を委ねた。
長訓は翌明治2年(1869年)に正式に隠居、長勲が広島藩最後の藩主となる。薩長土肥に続いて版籍奉還して広島藩知事となり、次いで廃藩置県により知事を免じられる。

廃藩置県で旧藩主は全て東京に移住することになったが、この時浅野家の東京移住阻止を目的とする騒動が起きた。当初は単なる引留め運動であったが、大規模な一揆に発展し、これを武一騒動という。
騒動の鎮圧には軍隊まで派遣され、武一ら9名が捕らえられ処刑され、広島藩もともに消え去った。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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